吹奏楽を辞める話

 7年間続けてきた。7年間も続けてきた、と言うべきかもしれない。それだけ続けてきたのならもっと上達してもよかったはずだ。中学一年のとき、部活のトレーナーから「そんなレベルじゃ趣味でさえないぞ」と言われたことがあるが、いまになってみるとこの7年間、その指摘はつねに当たっていたような気がする。それに、やっぱり僕は趣味としてトランペットを挙げたことは一度もなかったのだ。


 ところで僕がはじめてトランペットに触れたのは中学一年の春だった。有害極まりない受験戦争*1を終えた僕は、たしかに徳川将軍の事績をことごとく暗記していたし、つるかめ算だって簡単に解けた。しかし中学校でなにをやるのか、やるべきなのかはなにひとつ知らなかった。だから部活のことなんて考えもしなかったし、そもそも部活とはどういうものなのかもよく分からなかった。こんなとき、僕はいつも兄を真似たのだった。4歳のときにピアノを始めたのも、受験勉強に勤しんだのも、みんな兄の真似でしかなかった。そして、兄は音楽部でアルトサックスを吹いていたので、僕はそれを真似ようとした。


 僕がはじめて吹奏楽部の部室に足を踏み入れたとき、部長は楽器経験の有無を尋ねたあとで、四つの楽器を提示してきた。チューバ、ファゴット、パーカッション、トランペット、つまりそれらは残りものだった。僕が入部を決めたのは通常よりも少し遅かったのだ。チューバに関しては、体格的に向いていないことがすぐに分かったし、なにより性に合わないと思った。ファゴットはよく分からず、間抜けな音だなくらいの感想しか抱くことができなかった。パーカッションは当時、先輩が皆無だった。というわけで、僕がトランペットを吹くことになったのは消極的な動機であって、そもそもトランペットが好きだったわけではまったくなかったし、そのときまでトランペットを知りさえしなかった。あとで聞いたことだが、同期のひとりは、サックスをやらせてくれなければ入部しないとまで言ってテナーサックスを吹くことになった。そこまでの意気は、当時の僕にも、いまの僕にもない。つまりは、そういうことだと思う。


 はじめて部活を辞めようと思ったのは中学二年のときだ。あとから振り返ってみてもまったくギャグにならないような「中二病」に罹っていた*2僕は、やっぱりギャグにもならないような人間不信と自虐精神に悩まされていた。そうなっては、部活は苦痛以外のなにものでもない。とはいえ、当時の僕にはただひとりだけ信頼できる先輩がいた。彼をかりにS先輩とすれば、Sは一学年上でオーボエを吹いていたので金管の僕とはほとんど接点がなかったが、ミーティングのときなどわざわざ僕のところまで話をしに来てくれたりした。Sは、同期のうちでほとんど孤立していた僕と積極的に会話をしてくれる唯一の存在だった*3。と同時に、Sはダブルリードパートの先輩たちと険悪な仲であったこともあり、部活を辞めたがっていた。僕たちは部室の陰でいつも話していた、厭世的な気分で。僕のほだしとなったのは同期との人間関係だった。中高一貫校だったから、そう簡単にサヨナラができるわけではない。だから、Sがもし辞めたら自分も辞めよう、と中途半端にも決めた。結局、Sは辞めなかった。こうして、僕はずっと吹奏楽を続けることになった。


 高校生になり同期ともようやくうまくやっていけるようになった頃には、僕はもうパートリーダーになっていた。一学年上にトランペットの先輩がいなかったので、高校一年でトップになってしまったのだ。となると、新入生の面倒は自分が見ることになる。新入生は二年間で合わせて三人いたが、みんなかなり懐いてくれて、手紙をくれたこともあった。これはBLではないから、そこからなにかが始まったわけではないけれど、あのような先輩後輩関係は本当に美しかったと思う。いまでも時々あの頃のことを思い出して切なくなってしまう。そういえば自分の卒業式のあとに会ったときにはハグを求められた*4


 ほとんど惰性で続けていた吹奏楽だったが、まさか大学でも続けることになるとは思っていなかった。しかし、続けてしまうのだからよく分からない。大学受験が終わって精神的な危機を迎えていたときは詩にすこしだけ凝っていたから、文芸をやろうとは決めていた。だが、吹奏楽をやるつもりはなかったはずだった。いまちょうど思い出したが、高校時代に吹奏楽関連で知り合った他校の友達(当時は彼女にかなり入れあげていた。関ジャニ∞の好きな子だった)と大学入学前に数回会った際に「吹奏楽を続けよう」と幽かに思った気がする。たしかその子の母校の定期演奏会を観に行ったことで吹奏楽熱がすこし上がったんだと思う。所詮そんなものだった。
 いずれにせよ新歓当日、謎の社会科学サークルに連れていかれたり茶道部のひとたちとお茶を飲んだりしたものだが、ほんの気がかりでそのあと吹奏楽部を訪れたのだった。そこから先のことはほとんど覚えていないが、気づけばなぜか吹奏楽団に入団していた。肝心な動機が本当にまったく思い出せないが、それはきっと惰性だったのだろう――




退団について

 思い出話はこれくらいにしよう。退団するのは、楽団にいるべきではないという結論に達したからであって、それ以上でもそれ以下でもない*5。そして、この結論を可能な限りネガティヴに解釈すれば、僕の自滅ということになるだろう。すべては僕自身の問題に帰することができる。それらをいちいち列挙することはできないが、ひとつには僕のひと付き合いに重大な問題があったことはもはや疑いようもなく、このことは終始自身の首を絞めることとなった。この点に関して僕は非常に悪かったと思う。本当に悪かったと思う。そして非常に反省している。そういえばかつて亀井勝一郎が自殺した太宰治について「あるひとにとってはなんてことのない楽しみであっても、太宰にとっては死の苦痛となる」というようなことを述べたことがあったが、僕はこの点において太宰と近しいものをしばしば非常に抱えてきたように思う。これは精神的には非常に疲れることだった*6。しかし、その責任はやはり自分自身にある。その責めは全うせねばならない。
 端的に言って、すべて僕の責任だ。かりに僕が誰かを糾弾しようとすれば、僕は自らの不利を思い知って沈黙するだろう。僕が楽団においてなしうることは、本来的には沈黙のみである。


 退団を本格的に考え始めたのは今年の二月頃だったと思う。この頃には新学期の忙しさがある程度予測できていたし、哲学に対する熱意がピークを迎えていた頃だった。京大院哲学科の院試の過去問を手に入れるために京都へ向かったのもまさにこの二月だった。この時期に退団を企図したのは、哲学への没頭のためだ。それは非常に純粋な気持ちであって、疑いようのないものだったと思う。ごく一部の親しい同期には二月から春合宿の時期にかけて直接に退団の意図を伝えた。彼・彼女らの素晴らしかったのは、その意図をけっして否定しなかったことにあると思う。だからこそ、僕はその後の熟慮の機会を持つことができた。結果的には、退団はせずに出席日数を減らすことにした。当時は少なからず楽団への愛着(執着?)があったことの証左である。
 だが、次第に僕は重大なことに気がつくようになっていた。入団以来ずっと拭えなかった周囲の空気感との耐え難い乖離とでもいうべきものはこの頃、僕のうちで非常に逼迫した問題となっていた。もはや何をしても、何を言っても、自分を利するものは得られないし、同時に誰のためにもならないように思われてきた。楽団のうちでは特段に無理をしていたわけではなかったけれども、僕の自由がある程度抑圧されざるを得ないということはとっくのとうに学んでいた。楽団における周囲の関心、倫理、ユーモアに対して過剰に敏感になっていた。この楽団ではいったいなにが倫理から外れたもの(笑えないもの)とみなされるのか、逆にいったいなにがユーモアの範疇に収まるもの(笑えるもの)とされるのか、といった問いが絶えず僕に現れてきた。時々は、ある種の団員らにおけるあさましさ――倫理とユーモアとの境界の曖昧さ、より具体的には"誰の行為なのか"ということによってその境界が個別的に決まってしまうという意味でのあさましさ――に義憤を覚えたりした。とりわけ自分の信用していたひとのそうしたあさましさを見るのは本当につらかった。いったい何が間違っているのか、何が悪いのか、まったく分からなくなってしまった。


 春にもなると、希望よりは失意が、愉快よりは苦渋が、楽しさよりは寂しさが、楽団において僕を襲うようになっていた。唯一出席していた毎週月曜日はだいたい憂鬱な気分だった。僕はかつて『春に想う』という短いエッセイ*7で「愛と理解とはまったくの別物である。愛は理解を促し得るが、理解は決して愛の十分条件ではない」と書いたことがあるが、これは当時の楽団へのコミットの仕方をひとつ念頭に置いたものだった。理解なき愛も可能であると僕は信じたかった。しかし、それはどうやら不可能であるらしいことが、このところ分かってきた。おそらく僕は徹底して楽団に対しては無理解だったのだ。


 ところで、呪いには二つの種類がある。もとから呪いであるようなものと、事後的に呪いと化すもの。いまの僕はまさにこの二つの呪いに苛まれている。結局のところ、これが退団の根本的な動機である。とどのつまり、惰性こそ一つ目の呪いだ。中学時代のあまりにも中途半端な決意――Sが吹奏楽を続けるから自分も続けるのだという――、そしてもとを糺せば兄の模倣でしかなかった入部。すべてが惰性であり、すべてが呪いだ。言うまでもなく、楽団に所属していたことも僕にとっては呪いとして機能していたことになる。
 もう一つの呪いは、より心苦しい。楽しかった思い出こそ呪いとなるからだ。楽団では良い思いばかりしてきたわけではないけれど、それでもたくさんの楽しい思い出がある。なんだかんだ横市戦のときに行った八景島は楽しかった。夏合宿も楽しかった。金管の何人かでオールまがいのことをしたのをよく覚えている。あと、11月に金管の同期たちと一緒に行ったディズニーシーも楽しかった。大晦日の忘年会、みんなで寿司を食べたのもよく覚えている。何人かの同期とは何度かカラオケに行った。演奏会本番にしても、ある種の感動を覚えたりした。
 そういった思い出をやさしく掴んでみようとすると、思い出は砂のように指のあいだをするすると落ちていって消えてしまうような感覚を覚える。このとき僕は、あぁ呪いだ、と不吉な思いに駆られてしまう。楽しかった思い出は、もうそのままの姿では存在しなくなってしまった。退団を決めた瞬間、それは耐え難い呪いになってしまった。


 だから、この退団はある種のsuicideだ。呪いを断つためには仕方のないことなのだ。それゆえ、明らかなことだが、楽団に対する恨みとか憎しみとか、まったくない。誰それに対しても同じことだ。すべて僕自身の問題でしかないのだから。そして、僕は自分自身のしあわせと、僕以外のすべての人々のしあわせを心の底から願っている。究極的にはあらゆる平和を願っている。しかし、そのためには失わなければならないものもある。僕はもっとしっかりするためにここを出ていくことにした。




仲間について

 短い間だったが、少ないながら仲間はたしかにいた。彼・彼女らについてここでいちいち述べることは場違いに思われるからそのようなことはしないが、学年・性別問わず、仲良くしてくれたり話を聞いてくれたりしたひとたちはたしかにいた。これは非常にありがたいことだったと思う。その数は少なかったが、それでもいてくれるだけしあわせだったと思う。僕は大変な気分屋であって、特に親密だったひとたちにとっては非常に扱いづらい存在だったことは認めざるを得ない。素直に申し訳なかったと思う。
 唯一述べるとすれば、特にパートの同期は一緒に過ごした時間が比較的長かった。さまざまな場で本当にみんなに迷惑をかけてきた。感謝しなければならないこともたくさんある。あまりにも精神的に未熟で身勝手だった僕をさまざまな意味で支えてくれていたのは主にパートの同期たちだったと思う。僕はもはや彼女たちと対等であるという意識さえ持てなくなってしまったが、かつて一緒に練習したり高尾山に行ったりバーミヤンに行ったりしたことはたしかに事実だったはずだ。僕にとってはいまやそれらは耐え難い呪いとなっているが、いつか安らかな気持ちでそれらを思い出せればどんなにいいだろう。


 僕はあまりにも多くを間違えすぎた。この一ヶ月ほど、入団以来の自らの行動などを思い返していたが、驚くくらい自分はひどく間違った選択を下してきたということが分かった。仲間を裏切りかねないようなこともたくさんした。すべて自分が悪いという結論はこうした反省によって確実なものになった。と同時に、自らの選択を正当化する手立てはなにもないことも確実だ。感謝すべきひとに対していわば恩を仇で返すようであったのは、猛省に値すると思う。僕は自らの不遇を嘆く前に誰かをしあわせにしなければならなかったはずだった。


 これから先、そういう仲間たちとどういったかたちでどのくらい会うことになるのかはまったく分からない。もしかしたら、ずっと会わないことになるかもしれない。でも実際、たんに楽団という文脈を離れて自由に会うことができたらいいと切に願っている。それは、まさしく平和でしあわせな未来なんだと思う。

*1:有害な、あまりにも有害な受験戦争!

*2:たぶんまだ治ってないと思う

*3:Sは非常に華奢でかわいい顔をしていたので、そのぶん僕もSが好きだったのだ

*4:しかし拒否してしまった

*5:僕が僭越にも恐れているのは、あらゆる誤解である。この記事は、ありうる誤解に対する拒否をひとつの目的としている。そして、退団の理由については"すべて本人だけが悪い"という究極的な抽象度しか認めたくない

*6:それでも最近はすこし楽になってきた。それはいいことだと思う

*7:A.T.L 新入生歓迎号(2018)』の巻末に収録されている