肯定ペンギン論考-それは何の表象であったか-

序.表象不可能性

 およそ表象されるもの--表象されうるもの--が可視化され再現前化(represent)される以上、我々は目の前の事物に対しその〈意味〉を想起せずにはいられない。原爆ドームアウシュヴィッツ強制収容所……第二次世界対戦(et 太平洋戦争)における悲劇的な虐殺の表象。しかしあれほどの惨事は70年以上が経過した現在でも表象可能か? というより、そもそも表象可能なのだろうか?我々はそうした建築物を前にして何を理解するのだろうか?当事者がよく気づいている…その語れなさ、表象不可能性に。言葉を以て朗々と語ることはできない。言葉に詰まりながら……沈黙…。それが『ショア』の示した民族大虐殺の表象不可能性ではなかったか。そうした表象の臨界に敢えて挑み、表象不可能なものを表象すること。それが『ショア』の試みではなかったか*1
 そうした表象の不可能性とは対照的に我々の周りに溢れかえるキャラクター(character)たち。そもそもそれらは志向性が収容所などとはまったく異なる。キャラクターにおいて、いかに表象するか、というのは「よりfamiliarに、よりpopularに」を基調とし、表象の分かりやすさに主眼が置かれたのではなかったか。その中で我々がはじめに見たゆるキャラたち--せんとくんひこにゃんのような--とは一線を画す、北方領土エリカちゃん(2013~)のようなものも登場してきた。これはなかなかキテレツだが、底流を異にするわけではなく、理解は困難でない。では、このような表象可能性はいかにして実現されるか?まず、表象対象の分かりやすさ、というよりもむしろ、曖昧さである。いわば、対象のアイデンティティの不確立。あまりにも悲惨すぎるもの、或いはその対照としてあまりにも幸福すぎるものはそれ自体(強烈な)アイデンティティが確立している。それらはその強烈さ故に当事者の他には理解が困難であり、また表象も困難であるのではないだろうか。たとえばアウシュヴィッツや共同墓地のマスコットキャラクターなど悪趣味、さらにナンセンスといってよいのである。そして、流行である。ゆるキャラの流行。「よりfamiliarに、よりpopularに」の結果、爆発的に増加したカワイイゆるキャラたち。しかしこの現象は危険を孕んでいる。すなわちその反動、アンチテーゼとしてのカワイクナイゆるキャラたち。その例はわざわざ列挙するまでもないだろう。問題はその先にある。そうした流れの中で形成される無法地帯*2の中で本来表象不可能なものを強引に表象しようとする積極的な動きが生まれたら? ナンセンスの渦巻く世界には背を向けざるを得ない。

1.肯定ペンギンの表象

 ここで、個別的な事例に移ろう。肯定ペンギン(のあかちゃん)とは何か。「生きとし生ける人々を、肯定したり褒めたり労わったりちやほやしてくれる」*3ペンギン。この説明ならびに実際のスタンプなどを参照すれば分かるようにここでいう肯定とは、生の肯定に他ならない。いわば「生の肯定ペンギン」である。ここで、生のサンス(sens)という概念を導入しよう。サンス(仏)は英語のsenseに近いが決して同一ではない。ひとまず[方向]としておこう。イメージとしては矢印の方向である。生のサンスは我々が有機体として存在を始めた瞬間に出現した一方通行の矢印である。また一義的である。肯定ペンギンの肯定はあくまでもこの生のサンスに沿うかたちで行われる。それでは、このペンギンに、生のサンスに抗うような肯定は可能だろうか? 答えは否。肯定ペンギンは「死に至る病」に言及することはできない。というより、たとえ言及は可能であっても、死を、絶望を肯定することはできない。何故か? 我々人間と肯定ペンギンとの間のリジッドかつラディカルな存在的差異に視座を移そう。すなわち、テンポラリーな存在としての人間とパーマネントな存在としての肯定ペンギン。物理的存在にあらゆる制限を余儀なくされている人間に対して、その人間が作り出した肯定ペンギンはメディアとして、表象として、存在し続ける。皮肉なことに「人間死すとも肯定ペンギンは死せず」なのであり、その意味で肯定ペンギンが死を語ることはきわめてナンセンスである。
 さて、それでは何故、肯定ペンギンをメディアとした生の肯定が必要とされるのだろうか?

2.生の肯定の意味

 生の肯定とはショーペンハウアーの言葉を借りれば「生きんとする意志」であり、たとえば彼は性行為のうちに純粋なその意志を見出だすわけであるが、「我々は生のサンスに従って生の欲動たるエロスのみに突き動かされている」というのは単純すぎる。我々はエロスとともに必ずタナトス、すなわち死の欲動を知っている。そもそも我々の生きる世界は多種多様なサンスが入り乱れるカオスであり、ホッブズ的に言えば「万人の万人に対する闘争状態」、ラカン的に言えば想像界、人々が自己の幻を追求し相互暴力に至る領域である。それは人間が反自然的な存在である、つまり過剰なサンス*4を孕んでいることによるのであるが、そのようなカオスをおさえつけ秩序を生成したところで、完全にカオスを排除できるのではない。換言すれば取り残されたカオス--バタイユによれば「呪われた部分」--は必ず存在するのである。絡み合った過剰なエロスとタナトスにより流動するカオスは秩序の外に排除されながらも実は秩序を支える二重の記号活動--すなわちサンボリックとセミオティック--のうち後者の原型としてしばしば秩序に侵犯しその再構成を図るのはクリステヴァの示した通りである。
 さて、死のサンスともいうべきものを想定しよう。これは生のサンスと原点について対称な矢印とイメージすることができる。概してこのような対称により定立できる事象はきわめて「分かりやすい」。それは単純な二項対立によるイメージが可能であるからだろうか。やはり死も「分かりやすく」ふと憧憬の対象となることもあるし、それは人間にとり本来的なことではないだろうか。しかし、これを肯定ペンギンが肯定できないことはすでに述べた通りである。
 ここで、生の主体(sujet)たる自己の肯定と生の肯定との関係について見ていきたい。生の肯定は自己の肯定を必ずしも要請するとは言えないが、自己の肯定は生の肯定を要請するのではないか。すなわち、生の肯定とは自己の肯定の必要条件であって十分条件ではないのではないか。自己の肯定に視座を移そう。

3.間奏

 一時期(2016~2017)、インターネット・ミームとしてペンギンという単語が流行した。それはここで検討している肯定ペンギンに加え、もう一つ、Twitter上のある界隈における過度の「ペンギン」という単語の使用による。その界隈とは、いまだはっきりとした命名がなされていないが、ひとまず倫理界隈の発展形としておこう*5。彼らは独自の文脈のなかで「ペンギン」「コーギー」「巨頭オ」「黒人天皇」「完全な球体」などの語句--いわゆる文脈語--を使用し、発達障害ブームと相まって人口に膾炙するようになった。そのダダイズム*6シュルレアリスム的な前衛的魅力は受験と恋愛で朽ちた私に奇妙な興味を抱かせ、私はその界隈に足を突っ込むに至った。あらゆる文脈を哄笑し、あらゆるパラディグム、サンタグムに反抗する態度は刺激的だった。Twitter上では「いいね」を求めない、承認欲求を憎みユーモアのみを信じるその態度。そこに肯定ペンギンの存在である。もちろん私を含め界隈の人々は肯定ペンギンを文脈語として扱った。肯定ペンギンは失禁したのであり、精神を荒廃させたのであり、ストレス死したのである。ペンギンに対する印象の明暗はくっきりと分かれながらも「明」たる肯定ペンギンは「暗」たるその界隈に吸収されたのであった。

4.自己の肯定

 自己肯定には二つの道筋が用意されている。絶対的道筋と相対的道筋。ルソーによれば前者は自己愛(l'amour de soi)、後者は利己愛或いは自尊心(l'amour propre)だという。自己愛は「自己の自己による自己のための評価」であり自然と矛盾せず、生きていくための必要が満たされさえすればよいのだという思考に至る。ここで、ルソーの言う自然状態とはホッブズのそれとは異なり、悪徳なき調和の状態であったことに注意しよう。一方、「利己愛は、自分の力の及ばないものとの比較から生まれるもの」*7であるという。つまり、後者はジェラシー--或いはルサンチマンと言ってもよいかもしれない--に起因する自己の相対的な評価である。ところで英語においては自己肯定感と自尊心がともにself-esteemと表現されるのは面白い。さて、以上から分かることとは何か?肯定ペンギンは自己愛増幅のためのメディアであって、利己愛とは関係のないものであるということである。当然ルソーは利己愛でなく自己愛を評価したのだから、彼にしてみれば肯定ペンギンはまさに肯定すべき存在だっただろう。この点に関して私が反論する余地は残されていない。自己愛というかたちでの自己肯定が要請する生の肯定、「生きんとする意志」。ここに私は肯定ペンギン批判の論拠を失うことになるのである。

 

*1:YouTube上の動画『表象とその臨界』を参照されたい。

*2:ここでいう法とは実定法のことではなく、当然倫理のことでもない。「何でもアリ」の比喩である。

*3:肯定ペンギンのあかちゃん-クリエイターズスタンプ-LINE Store

*4:浅田彰『構造と力』に詳しい。ピュシスの類同代替物としての象徴秩序の記述も興味深い。

*5:「ひとなぐりこけし」のエントリ『倫理』に詳しい。

*6:なお精神障害ダダイズムとの関係はマックス・エルンスト精神障害者の絵画に感銘を受けたと語っていることから分かる。

*7:ルソー『人間不平等起源論』