別れたる彼女に送る手紙

 あれから随分と時間が経ったし、あとすこしで年も変わる。こっちは、ちょうど一年前なら想像すらしなかったような状況に置かれることになった。きみがいまどのような状況に置かれているのかほとんどなにも知らないのだが、少なくともこの間の演奏会がうまくいったことについては知っている。聴きに行けなかったことを残念に思っている。労いと祝福の気持ちをどうか素直に受け取ってもらいたいと願っている。そしてきみは楽団における最高学年になり、まぁそこはお互い様なわけだけれど、ぜひがんばってほしい。こうやって他人事のようにしか言えなくなったことは悲しいことかもしれない。でもいまとなっては仕方のないことだ。
 それにしてもきみとは長いこと話していないことだし、いくらか伝えておきたいこともある。とはいえそもそもこれがきみの目に触れることになるかも分からない*1し、ここで読み進めることを断念してくれても構わない。それはきみの自由だが、できれば読んでほしいと思っている。私はこれを自分のために、そしてきみのために書いたのだ。別にこれによって再交渉を願っているわけではないし、私がこの程度のことで事態の好転を期待するほど楽天家でないことだってきみなら分かってくれるだろう。むしろきみはこれによって私をより厭わしく思うことになるかもしれない。十分に遠くなったきみをより遠くに退かせることになるかもしれない。いや、間違いなくそうなるだろう。


 これからつらつらと書いていくのはこの半年間の私の生活と心境であり、つまり所詮はくだらない自分語りでしかないのだが、それでもなにがしかきみに伝わればいいと思っている。私はこの半年間、なにも変わっていないのかもしれない。変わったのは環境だけなのかもしれない。しかしなにかに追われるように変わろうとしたことはたしかだと思う。だからどうというわけでもないのだが、なによりもそのことは他でもないきみに知ってほしいと思っていた。こんなものを書くなんてただ自分が可愛いだけじゃないか、と思うかもしれない。でも、そんなことは分かりきっていることだ。当たり前のことをいまさら言ってみたって仕方ない。我が身可愛さに恋をしないひとがいるだろうか、まして我が身可愛さに生きていないひとがいるだろうか。だから、どうかそんなことを頼りに私を評価しないでほしい*2


 実はどこから話を始めるべきか分かっていないけれど、とりあえず生活が決定的に変化したのは5月だった。ゴールデンウィークを人並みに楽しみにしていた私は文字通りどん底に突き落とされることになった。青天の霹靂とはああいうことを言うのだろう。きみがどんなふうに別れを切り出したのかどうしても思い出せないのだが、私に対するきみの怒りや失望がたしかだということは分かった。きみと会った翌日に私は友人とふたりで浜松へ行くことになっていたが、とにかく気が気ではなかったし、実際そんな悠長なことをしている場合ではなかった。なぜ浜松まで行けたのか不思議なくらいだ。おそらく、あの頃の私はまだきみと本当に別れてしまうとは思っていなかったのだと思う。時間を置けばまた元に戻れるのではないかという期待は依然として胸のうちにあった。恋人同士として最後に会った日までその期待はずっと胸のうちにあった。
 正式に別れたその日の帰りは最寄りの一駅手前で降りて一駅ぶん余計に歩くことにしたのだが、それはきみと恋人同士になった最初の日の帰り道と同じコースだった。つくづくふがいない人間だ。私は道中のマクドナルドに入っていって、四桁の金額ぶん食べた。もとより少食だし、マクドナルドでそれだけの金額を使ったのはきっとその日が最初で最後だろう。
 それにしてもどういうわけか、関係が続くことへの期待が裏切られたにもかかわらず私は随分と清々しい気持ちになっていた。あの日の夜には、これから始まる新しい生活に胸を躍らせていさえした。きみへの接し方を変えねばならないのは当然分かっていたが、それだって容易に思われた。実際、私はその翌日の部活の最中にもきみに容易に話し掛けることができた。
 しかしそれは一時的なものでしかなかった。早い話、突発的な躁みたいなものだったのだ。直後にはもうどうしようもない鬱に襲われていたし、知っているように結局きみに迷惑を掛けることになった。きみはよく"0か100か思考をやめられるといいね"と言っていたが、当時はまさにそうした極端な思考に苛まれることになった。もしかするとこの極端さは諦めるしかないのかもしれない。私はこの性向を仕方なく受け入れはじめている。


 私が管弦楽団にはじめてコンタクトを取ったのは5月24日らしい。これはいまさっき調べてはじめて知ったのだが、あまりにも身の返しが早いなと我ながら思った次第である。といってもそれは私以外にはきみしか知り得ないことではあるけれど。そしてその月の最終日にはじめて管弦楽団の部室を訪ねて、その場で入部届にサインをした。以来いままで管弦楽団に籍を置いている。部活やサークルを辞めることなんて実はどうでもいいことなのかもしれないが、私にとってはけっしてそうは思えなかった。というのもまさにきみのこともあったし、しかもこの狭い大学で人間関係を一挙に更新することなんて不可能だ。どこにいても忘れることができない。そんなわけで後ろめたさはどうしても付き纏う。
 きみは、私が辞めることによって最高学年次のパート運営が困難になるということをよく言っていたが、私がそのことを考えなかったわけがない。それは百も承知だった。だからこそ罪深いのかもしれないが、私があのまま続けることのほうがそもそも困難だっただろう。それは私だけでなく、きみにとってもきっとそのはずだったと思う。大事なことは、私たちの関係はふつうではなかったということだ。
 いまでも吹奏楽団にいた頃について後悔することがある。そんなときにはバカバカしいと言ってなんとかやり過ごすことにしているが、やはりなにか心残りやもどかしさ、やましさがあるのだろう。きみに対して申し訳なさを感じていないわけはない。きみ以外の同期に対しても、あるいは楽団に対してもそうだ。しかし、楽団が私を必要とすることはない。このことを忘れないよう努めている。これを忘れてしまってはひどい思い上がりになるのだ。


 6月といえば、22歳の青年が東海道新幹線で殺人事件を起こした月だ。それと、21歳の自衛官が拳銃を奪って小学校で発砲した月だ。彼らをただ断罪するだけでよしとしている人々をどうしても許すことができない。当時、私は彼らを肯定することはなくても同情していた、同情せざるを得なかった。少なくとも私は彼らに自分をどうしても重ねてしまった。生きることは問題ばかりだ。けっして好き好んで生きているわけではない、しかし安易に生きることを断念できるわけでもない。この困難に気づかないような人々を許すことができない、しかし羨ましく思う。とはいえ私は(少々の独白癖を除いては)目に見えて錯乱することはついぞなかった。こうして私もまたある種の人々から羨ましがられるのだろう、そして許せないと思われるのだろう。


 あと6月の最後には「吹奏楽を辞める話」を公開した。きみたちパートのメンバーらがよみうりランドに出掛けている間、私はあの記事の手直しをずっとやっていたのだ。きみは、仲良しだったひとたち(つまりきみたちのことだ)と離れてひとりあの悲しい文章を前にただ日の暮れるのを待っていた私の気持ちが想像できるだろうか? あれほど悲しいこともなかなかないだろう。あの日のことを無情のままに思い出すことができない。
 あの記事によって私は退団についてきみたちに直接説明することはなくなったと思っていた。しかしきみたちがそうは思っていなかったことを知り、自分なりに色々と考えを巡らせた。なんといっても直接に説明したとしてきみたちはどのように反応するというのか。ただ直接に退団の件を報告し説明するだけなら難しいことはない、しかしその反応を一身に受けることは精神的に厳しすぎるものがあった。私は自分の責任ですべてを一身に背負わねばならなかったことを理解してほしい。それに当時の私は「自己責任」の一言で片づけられることをとても恐れていた、とりわけきみからそのような言葉を聞くことがあれば耐えられなかっただろう。少なくとも同期のなかで頼れる相手は誰一人いなかったし、それだけ心細い思いをしたのだ。きみは"きみに仲間がいないわけじゃないし、そこまで孤独を感じることもない"というようなことを言ってくれたことがあった。実は本当にそうだったのかもしれない。しかし私はそう思い込もうとしてもできない人間なのだ。この厄介な自意識をどうにかできたらいいのに!
 きみはあれを読んだあとに連絡をくれたが、内心嬉しかった。結果的に喧嘩別れみたいなLINEの応酬になってしまったが、どうにでもなれという倦怠感の裏に、また連絡を取り合うことができたという喜びがあったことはたしかだ。私はそれほどにさもしくなっていた。そしてきみにSNS上でブロックされたのはまさにあの直後だった。まさかそのことをいまでも根に持っているわけではない*3が、当時はそれなりに傷ついた気がする。おそらくそうした行為の裏には、きみの私に対する心情とともに、きみと私しか知り得ないような理由があるのだと思う。つまり、連絡を絶とうと言ったのはきみではなく、他でもない私だったということだ。だからその点できみのやさしさは分かっているつもりだ。しかし私はやはり間違っていたのだろう、私はいまに至るまでずっと、きみとの連絡の当否についてどうしようもないジレンマを抱えることになってしまった。現にいまこうして回りくどいやり方できみに向けて書いているのも、そのなかでの私なりの得策なのだ。


 七夕に吹奏楽団での最後の演奏会を迎えた。あの楽団での最後の日だったが、この日にきみと会話をした記憶がない。おそらく目を合わせることもなかったと思う。知っているか分からないが、演奏会の前日にエスタロンモカ(カフェイン剤の名称である)を過剰摂取したせいで当日の私の体調は最悪だった。演奏会を欠席したかったほどだ。当日の集合時間にひどく遅刻したことはきみも知っているだろう。とにかく、体調のせいもあって演奏会当日を無事に過ごすことはできなかった。うつらうつらしていたのだ。きみも含めてパートの同期たちと話す余裕も持てなかったのは事実である。そうして退団の件については同期らに直接なにも言うことなく、すべてが終わった。申し訳ないと思っている。いまさらどうしようもないことだが、本当にすまなかったと思っている。
 演奏会のあとにはきまってTwitterでやさしい文面がたくさん流れてくるわけだけど、きみも知っているように私は演奏会後の打ち上げに参加しなかったからひとりそれらを眺めていた*4。やさしい人々はその日を平和に過ごしているという事実にどう向き合えばいいのか分からなくなったし、これから先この"分からなさ"が自分にとって大きな問題になることが予想された、そして実際そうなった。パートの同期のひとりが先輩に"辞めたF氏のぶんまでがんばりましょう"と言った話。あれがいい話なのは間違いない。だけど、そのいい話に自分がどう向き合えばいいのかはまったく分からなかった。私はその話の内実をまったく知らない、F氏と同時に辞めた私についてはどうなのか知らない。もっとも私は演奏会前から楽団内で自分を話題にしてほしくないと再三言っていたけれど。しかし、F氏と私とのあいだに埋めようもない深いギャップが存在していることは明らかだ。私はいまでもF氏が好きだし、ある面では尊敬もしている。しかし、このいい話にどう向き合えばいいのかは本当に分からなかった。その夜のことは他になにも覚えていない。


 いや、あとひとつだけ覚えていることがあった。同期のひとりとのLINEだ。彼女はそこで私が退団について直接説明しなかったことを責めたが、私はただ言い訳するしかなかった。そうして結局まるで喧嘩別れのようなかたちになった。私は高校時代のクラスメイトらとも喧嘩別れをしたが、そのときとは比べようのないほど自責の念に駆られたことを言っておこう。彼女のやさしさを私は理解していたつもりだったが、しかし無下にしてしまった。私はどうしても彼女に顔向けできない。


 ひとづてに聞いたかもしれないが、今年の夏に私は深夜のコンビニで働くことになった。"深夜バイトはやめたほうがいい"ときみから以前に忠告を受けたこともあったし、実際その通りであるから私はまったく安易に夜勤を始めたわけではない。私が接客業に向いていないことなんてきみならすぐに分かると思う。それでも私は真夜中コンビニのレジに立っていた。立たざるを得なかったのだ。自分は社会を知らねばならないと思ったからである。社会を知ることはほとんど自傷のようなものだけど、それを厭うだけでは自分はなにも変わることができないことを私は理解していた。
 "なんでこんなことやっているんだろう"と泣きたくなったことは何度もあったし、実際勤務中に目頭を熱くしたこともあったが、なんとかやっていた。三晩続けて勤務したこともある。コンビニの夜勤というと、まずレジに立って会計なりチケット発行なり済ませるのは勿論だが、それに加えてコーヒーメーカーの洗浄とかパンの品出しとか、あるいは早朝に雑誌や新聞紙の受け取りも行わなければならない。業務はまだまだある。深夜の3時や4時を廻る頃にもなるとどうしても虚しくなってくるものだが、朝の6時を迎えて八時間の勤務から解放されるといくらかは達成感も芽生え、それまでの虚しさだとか悲しみはいったんどうでもよくなってしまうのだった。


 しかし、想像がつくだろうけど、バイト先での人間関係はまったく上手くいかなかった。もともと私を面接し採用したオーナーや店長は私を高く買っていた*5し、場違いではあってもはじめのうちは学歴の権威が機能していた。しかし次第に私が仕事のできないのが知られるようになると、彼らはお利口さんのように掌を返した! それにしてもオーナーなどは私の監督のために通常よりずいぶんと長いあいだ深夜に出勤していた。オーナーをそうやって煩わせたことは申し訳ないと思っている。しかし面接の場で私を褒めちぎるくらいには彼に人を見る目がなかったと言わなければならない。そしてそのツケは残念ながら自分自身で払わなければならなかったのだ。
 また、バイトの先輩にはよく怒られたものだった。私が勝手に行動するというので、ちゃんと自分たちに聞いてから行動しろと言う。しかしいざ聞いてみると、まさにひどい顔(本当にひどい顔だった!)で、それもほとんど無言で応対するのだ。彼らにしてみれば、私は物分かりの悪い小僧でしかなかったのだろう。まぁ当たっていないわけではないが、彼らごときになにが分かるんだという話だ。しまいには言葉も交わさない仲になっていた。


 夜勤を始めてから一ヶ月程度が経った頃、私はオーナーから退職の勧告を受けた。その頃には仕事に慣れてきたつもりだったから、なぜ自分が辞めねばならないのか、まだたった一ヶ月じゃないか、という疑問しかなかった。しかし人間関係の問題を思い返してみると、自分が辞めることの意味は納得できてしまうのだった。オーナーには"きみが来てからバイトの子たちの雰囲気が悪くなっている"と言われたが、不覚にも私はそれに素直に納得してしまった。あの店にとって私は問題児ということだった、それだけのことだったのだ。だとしたら、話は吹奏楽団の頃とほとんど同じだ。私は同じことをまた繰り返していた。


 バイトといえば私がかつて工場で働いていたことをきみは覚えているだろうか? 一年前など、巨大冷凍庫のなかでの作業の話をきみによく色々と聞かせたものだった。夜勤はつらかったけれど、しようと思えばすこしは仕事についての面白い話だってできた。なにより深夜のコンビニなんてきみにとってすごく縁遠いし、それだけきみの知らない世界について私は多くを知るようになっていたのだ。きみにそれを聞かせられたらと思っていた。私は仕事を終えた早朝にぽつぽつとTwitterにかなしみを打ち込むより前に、きみに仕事の愉快な話でもできればよかった。仕事中でも夜が深まり手が空けば、きみの悲しげな顔がありありと浮かんできて、なんとか弁明できないかと心を煩わせていたものだ。そうして、無理をして深夜に働いていることがきみに対してどうしようもなく申し訳なく思えてくるのだった。


 夜勤の最終出勤日は当然のようにバックレた。このさき顔を合わせることのない人々への義理を感じなかったし、大学生を一ヶ月程度でクビにするような職場に対して恩のひとつさえなかった。とはいえきみは、まさに私のこうした態度が問題なのだということを知っているだろう。その日は近所の公園で花火をした。とても月の綺麗な夜だった。だいたいそんな日に限って月は綺麗なのだが、それがいいことであるかどうかは分からない。
 昨夜の月はとても綺麗だった。なにか示し合わせでもあるんじゃないかと思えたくらいだ。今夜の朧月もとても綺麗だ。よく覚えているのだが、去年の今日も月が本当に綺麗だった。


 夜勤バイトを終えたあと、傷心のまま岩手のどこかの村での学生ボランティアに参加した。これはまったくの偶然で知り合いに誘われたもので、何か変わるかもしれないという漠たる思いで早々と参加を決めたのだった。20人くらいの大学生たちと一週間も寝食を共にし町おこしの手助けをするというボランティアだったのだが、私がこれを楽しめたはずがない。しかし私はここで"ふりをする"ことを覚えた。私はこのボランティアで楽しんでいるふりをしたし、参加前よりも成熟したふりをした。なによりもそのボランティア自体がどうしても参加者全員を成熟させたがっているのを私は十分に理解していたのだ。結局、参加者が感動に涙を流したりするなか、"自分とは遠いな"という感想を持つだけだった。さすがに泣くふりができるほど役者ではないので、適当に言葉を捻り出し適当に笑顔を作りながらその一週間はなんとか乗り切っていった。私がその一週間において成熟した点があるとすれば、そういう擬態に慣れたことと、最悪の生活環境*6を体験できたことだろう。このときもまた、私はきみなどに思いを馳せながら"なんでこんなことやっているんだろう"と思い詰めたものだった。ボランティア初日はあまりにも気乗りがしなかったから仮病を使って一足先に寝たほどである。それでも夜勤バイトよりかはいくらか開放的な場だったしなにより村の景色は素晴らしかったから、まったく悪い経験というわけでもない。


 ボランティアを終えるとすぐに山梨へ向かった。管弦楽団の夏合宿があったのだ。疲れていたしやはり気乗りがしなかったが、つい先日まで吹奏楽団に所属していたこの自分がいまは管弦楽団の合宿に参加しているという事実がおかしくて正直すこし楽しかったのは事実だ。合宿前に管弦楽団のひとたちとの交渉がほとんどなかったからかなり不安なまま合宿に参加することになったが、蓋を開けてみれば同期たちとはそれなりに仲を深めることができたし、いくらかは他学年のひとたちとも交渉することができた。私の夏は夜勤といいボランティアといい暗さを纏っていたが、合宿を契機に状況はいくぶん好転したように思えた。
 知っているか分からないが、私は管弦楽団で結構な役職に就くことになった。管インスペクターと呼ばれている役職で、簡単に言えば管楽器を中心にまとめる学生指揮者みたいなものだ。吹奏楽団を辞めたあとでまさか指揮を振ることになるとは思っていなかった。おそらくこれはある意味で笑い話みたいなものだ。きみはまた"なにやってんの"と呆れてしまうかもしれない。もっとも私が吹奏楽団で音響長になる予定だったことはきみも知っているはずだ。私はそのうえで辞めたから音響係の先輩方や同期たちに迷惑をかけることになった。きみは音響長でさえ務まるか心配していたから、指揮者なんて真っ当にこなせるはずがないと考えるかもしれない。実は私もそう思っているのだが、役職に就いたうえで簡単に弱音を吐くことは無責任だし、とにかくやるしかないということだ。


 合宿のすぐあと、吹奏楽団の先輩方と会って話をしたことがあった。親切にも私のことを気にかけてくれていた先輩だった。彼女にどう感謝を伝えるのが適切なのかいまだによく分かっていないのは本当に心苦しいが、とにかくとても感謝している。その場では、調子に乗って安っぽい人生論を披露してしまったことがとても悔やまれる。私の悪癖のひとつだ。パートの先輩も同席されていたお蔭で色々な話を聞くことができたし私の精神状態はようやくそれなりに安定するようになったが、決定的だったのは9月21日だった。この日の明け方に私はなにか啓示めいた声を聞いた。それがあまりに神秘的だったのでどうしても詳細を語る気にならないが、その声をメモした手帳をいまでも大事に手元に置くようにしている。あまりにも素直な声であったのでハッとせずにはいられなかった。バタイユだったらああいった体験を「内的体験」と言うかもしれない。まぁそんなことはどうでもいいのだが、とにかく私はあの明け方以来しばらくは救われたような気分になっていた。このうえなくやさしい気持ちになっていた。そんな時期が私にも間違いなくあったのだ。


 10月には大学で後期が開講した。大学といえば、火曜の社会学の授業はきみも受講している。哲学科の私がわざわざ受講しているのだから本来なら「私も受講している」と言うべきなのかもしれないが。それにしてもあの授業が通年であることを非常に恨めしく思ったものだ。きみはどうか知らないが、あのような状況はやはり居心地が悪く感じるものだ。誤解してもらいたくないが、本当はきみの前からすっかり姿を消したいと思っているのに、毎週同じ教室に居合わせることになるのはこちらとしては(こちらとしても?)なかなかつらい。それと、きみの親しい友人たちで私のことも知っている人々からすれば私はどうしようもない人間と思われるしかないのだが、そのような人々は揃いも揃って人文社会系の学生であったりする(まぁ考えてみれば当然ではある)。それ以外にも学部関係やサークル関係の諸々で顔向けできない相手がこの大学には多くいるのだ。それでも堂々としていられるような人間は傲岸と言われても仕方ないだろう。私はそれほど傲岸不遜ではないから背を縮めなければならなかった。


 11月はまず大学祭だろう。時期が時期であったからその間にもやはり私は物思いに耽っていたが、管弦楽団として久々にアンサンブルに参加したり夜遅くまで酒を飲んだりしたのでむしろ楽しい思い出が多かったのは救いだった。ところで大学祭の最終日の夜に時間を持て余して散歩をしていたらスマートフォンを落として壊してしまった。画面が派手に損傷してしまい、まったく操作が効かなかったので内部のデータを取り出すことができず、ほとんどすべてのデータが失われてしまった。残念だったが、さきに述べたように時期が時期だったのでかえって決心もつくというもので、しばらくは何事もなかったかのように過ごすことができた。
 しかしそのあとになってダメ元でLINEのデータのバックアップを試してみたら、なぜか去年の11月末までのデータが復旧してしまった。それだけでなく、画像データもやはり同時期までのものはすっかり復旧してしまった。去年の11月には、きみとの諸々を抜きにしても、吹奏楽団の金管のメンバー(全員ではなかったけれど)でディズニーシーに行った、それだけでなく、パート同期4人で高尾山に登った。あの頃はまだ軋轢などほとんどなかったはずだ。その時々の写真がすっかり復旧されて目の前に現れてきたのだからどうしようもなかった。遣り場のない悲しみとはあのようなものを言うのだろう。


 絶望を語ることはいまさらしなくなったけれど、そもそも絶望を語ることは不可能だということに気づいた。本来、絶望は言語化しようもないもの、言葉では把捉できない呻き声みたいなものなんじゃないだろうか。絶望について言えることはただそれだけだと思う。そしてたぶん、そういう絶望をあえて語ろうとするところに詩の本領があるんだと思う。おそらく詩の本懐はそういうギリギリな営為にあるんじゃないか。
 いや、詩の話なんて別にどうでもいいんだった。ところで以前はときどき哲学の話をしたと思う。それに関しては、なにを言っているのかよく分からなかっただろうし申し訳なく思っている。きみはもう忘れてしまったと思うが、かつて実在論と政治との関係の話をしたことがあったーーあれは2月、横浜に行ったときだ*7。あの頃はそんな話題に動機づけられてはるばる京大院を訪ねるほど熱が入っていたけど、いまやそんな情熱はずっと冷たくなってしまった。どんなときでも、自分において熱意はしょせん思い上がりに過ぎないことを知ってしまった。きみと別れてからは哲学の学会に何度か足を運んだり専門書を随分漁ったりしてきたが、やはり自分はアカデミズムの世界に進むことはできないと確信するまでになった。さすがに思い上がりで数十年を過ごすことはできない。


 平和に生きたいという気持ちだけはたしかだ。程度にかかわらず破滅願望はいつでも平和願望を伴っていることをどうか覚えておいてほしい、周囲の人々においてもきっとそうだと思う。将来の夢みたいな大それたものはなにもない。でも、どこかずっと遠くの街で古本屋を開きたい。小さな古本屋がいい。小さな古本屋では店主はたったひとり静かに佇んでいる。国立でも、浜松でも、千葉でも、京都でもそうだった。そうやって時間を過ごしていたい。店名はヒロソヒ古書なんかどうだろうか、ヒロソヒはフィロソフィーの旧訳なんだけど。そうやって哲学にかかわってみてもバチが当たるわけではないだろう。哲学で身を立てることは諦めても生きること自体を諦めないかぎりは、きっとそれでもいいはずだ。
 許されるなら、どこか遠くの街で他人と口を交わさず静かに暮らしたい。小さい頃から口数は少なかったし、いまでもこの口を使って声を出すことは厭わしくて仕方ない。不便なこの声は結局この歳を迎えてもどうにもならなかった、きっと死んだときでさえ私の声は天まで届かないだろう。一方できみはよく通る声をしていたし、そしてよく笑うひとだった。そういうわけで、きみの声がとても好きだった。


 まったくの他人同士になったいまとなっては、きみになにかを望むということはない(それに、そもそもできないだろう)。おそらく私は私の生活を過ごし、きみはきみの生活を過ごすということだけだ。そろそろ気づきはじめているだろうけれど、きみは愛されやすい人間だ。きみがなんと言おうとそれは間違いのないことで、私より以前にそうした男のいなかったことが不思議なくらいだ。これからきみを愛することになるひとーーあるいは、いまこのときでもいい……ーーが存在するということはなんの不思議もなく、まったくその通りだとしか言いようがない。どうしてもこれは認めなくてはならない。しかしこれは本当に心苦しいことだ……。このことでどれだけ心を乱したか知らない。衝動に駆られて何度連絡しようと試みたか覚えていないが、自制のために結局連絡は取らずじまいだった(もっともきみにとってはそれがよかったに違いない)。詩人のネルヴァルがかつて愛したひとの結婚の報を聞いて発狂した話を読んだときは、どうしようもなく不吉な思いがしたものだ。とはいえだからといって私になにか為す術があるかといえば、まったくないのであって、ひどい孤独のなかに置かれることになった。しかしもとよりこうした孤独は、生きていくうえでは諦め受け入れるしかないのだろう……。フランス人なら、これは愛すべき良い孤独なのだと言うかもしれない。なんとでも言え、だ!
 ひとつだけきみに望んでもよいなら、私が死んだときには悲しんでほしい*8。そもそもこんなことはわざわざ他人に要求することではないのだが、とにかくそれが気掛かりで仕方ない。そのときはいつになるか分からない、本当にずっと先のことできみは私のことなどとうに忘れてしまっているかもしれない。それでも悲しんでほしいと思っている。きみが私の死を悲しんでくれさえすれば、私の生は果たされたことになるだろう。そのほかに世界に望むものもない。

*1:もしきみがこれを見ているとしたら、きっとそれは誰かにこの記事の存在を聞かされたためだろう

*2:ちなみにこういった話題を扱った文章を文芸誌に寄稿したーー「祈りについて」なんて歯の浮くような題をつけてしまったのは間違いだったと思う、でも「愛について」なんかよりはずっとマシだろうーーことがある。きみは読んでいないだろうし、読む必要もない。もっとも、誰ひとりあんなものは読んでやいないだろう

*3:きみはいいとしても、某パート同期もまた私をブロックしていたことは解せない。ブロックそのものが問題なのではなく、彼の態度が問題なのだ。彼については……。いくらでも述べ立てることができるが、それは個人攻撃になるのでしない。そのかわりに私がどれだけ楽団内あるいはパート内で生きづらさを抱えていたか、理解してくれなくてもいいからすこしだけでも思いを馳せてくれたら嬉しい。それに、彼に関しては私は随分前から一貫した態度を取ってきたことを付け加えておく

*4:正確に言うと、打ち上げの最中に私は友人と食事をしていた。別れ際を楽団のひとたちに見られたのは不本意だった

*5:これは本当のことだ、あのコンビニで働いているきみのクラスメイトに聞いてみれば分かる

*6:宿舎はとても寝食できるような場所ではなかった。まるで200年前の労働者階級の生活のようだった

*7:私のそういう記憶力の良さについて覚えているだろうか、別に忘れてしまっていても構わないけど

*8:これは大袈裟に言っているわけではなく、真剣だ

アソシエイション

 弁証法において我々がもっとも見逃してはならないものは、その否定的保存である。ヘーゲルにおいて悟性は認識の固定化あるいは一意化を為すものであったが、彼は当然この点を無視するわけにはいかなかった。だからこそ彼はアンチテーゼがテーゼに遅れて生起することを必然と考えたのだった。そしてこの両者の綜合が無限に繰り返されるところに絶対知を想定したのだが、ここで弁証法における否定的保存とは、巨視的には、その無限の弁証法の進行のなかでその諸モメントが消去してしまうのではなくむしろ保存されるということである。それはマルクスにおいてもそうである。いまや滅んでしまった社会やその制度はまったく消滅し去ったのではなく、ある種の仕方で保存されている。それでは、我々はここに一抹の希望を見て取ることが可能だろうか。この問いこそがこの短い記事のテーマである。


 それにしても定立と反定立との関係とはいったいどのようなものなのだろうか。それは命題とその否定命題という関係でしかないのだろうか。とはいえ形式論理的に命題の否定を与えることがいつでもできるわけではけっしてないだろう。しかしここで形式論理的な考察をいくらか加えることは無意味ではないだろう。
 たとえば命題Pが与えられたとき、その否定命題¬PはP以外のすべての可能な命題の全体を意味していると言うことはできるだろうか。このようにsimpleな論理定項を素朴に様相に関する語りへ飛躍させることには大きな抵抗がある。しかし、かりにそう言えると想定してみよう。つまり否定命題を以下のように定義するのである。
「¬Pは、P以外のすべての可能な命題の全体を意味している」・・・(✽)
このとき、以下のように推論を進めることができる(但しかなり粗雑である)。
 私の過去のすべての体験を各々独立に原子命題と見做し、p1、p2……pn-1、pnとしてみる。すると、私の過去の体験の全体はこれら原子命題の連言
p1∧p2∧……∧pn-1∧pn・・・(1)
となる。ここで、(1)と同値であるのは
¬(¬p1⋁¬p2⋁……⋁¬pn-1⋁¬pn)・・・(2)
という論理式である。
 我々はさきに否定命題を「もとの命題以外の可能な命題の全体」と考えることにしたのだから、この論理式(2)は以下のようなことを意味している。つまり私の過去とは、各々の体験に対して「そうでないこともあり得た」ような命題すべての選言の否定なのである。
 たとえば、私が昨夜の11時半に百人町の路地である女性にキスしたことを後悔し「あんなことしなきゃよかった……」と考えているとしよう。いま命題Pを「昨夜の11時半、私は彼女に百人町の路地でキスをした」とすると、¬Pは「昨夜の11時半、私は彼女に百人町の路地でキスをしなかった」という命題になる。繰り返すが、これは定義(✽)によって「昨夜の11時半に私が彼女に百人町の路地でキスをしなかったような事態の全体」を意味するのである。これはつまり、この無味乾燥な否定命題が豊饒なバックグラウンドを持つことを示唆する、いやむしろこのうえなく直接的に提示している。私は昨夜の11時35分にキスをすることもできた。また、それは歌舞伎町でもよかったし、キスの相手は彼女でなくてもよかった、それにキスでなく手を握るだけでもよかった。
 このような可能な事態の全体すべての選言をまとめて否定することが、(2)のactiveな意味での解釈であると言える。そして(1)は(2)と同値であるのだから、そのような否定は(1)のactiveな意味での解釈、すなわち私の過去のいっさいを事実として肯定することと等しいと言えるだろう。我々が過去のいっさいを受け入れ肯定することは、そうした「可能な事態の全体」を諦めることである。我々はこのように述べることで以上の論理学的な考察を打ち切ろう。


 「全体をまるごと否定する」とはつまり「諦める」ことである。そもそも私は諦めというものに美的な感覚を覚える。そういうわけで九鬼周造が「いき」を研究したあの有名な論文を読んだときにはやはりなんとも言えないような感動を覚えた。ここで、冒頭で見た弁証法の否定的保存とこの諦めとの連関を見てみよう。
 バタイユヘーゲルの壮大ではあるがclosedな体系に反発したが、それは彼の自意識に由来するものだったらしい。というのは、彼は自らの生を使い道のない無用なものと言うのだが、ヘーゲル弁証法において彼のその無用な生は居場所を失っている。こうして彼は自身の生がすでにヘーゲルの体系への反論になっていると主張する。ここで重要なのは、バタイユの言うところの「使い道のない無用な生」がまさに諦めを経たものであるということだ。彼は「努力の果てにしか断念に至れなかった」と述べているが、ここから彼の諦めを垣間見ることができる。彼はけっして動かなかったのではない、動いた結果として諦めに至ったのである。


 こうしたactiveな諦めは悲劇的だが、それだけ美しい。バタイユがその後に精力的な探求に向かったのもそのようなものに導かれてのことではないかと推測する。消極的な諦めにはそうした美的価値がない。積極的な諦めにこそ価値がある。それは意志としての諦めである。おそらく力への意志はここで無力だ。


 こうして純粋にヘーゲルの体系、その否定的保存のうちに我々は希望を見出すことができない。しかし、意志的な諦めの美的価値に我々は希望を見出だせると思う。むしろ我々はここに賭けるしかない。

吹奏楽を辞める話

 7年間続けてきた。7年間も続けてきた、と言うべきかもしれない。それだけ続けてきたのならもっと上達してもよかったはずだ。中学一年のとき、部活のトレーナーから「そんなレベルじゃ趣味でさえないぞ」と言われたことがあるが、いまになってみるとこの7年間、その指摘はつねに当たっていたような気がする。それに、やっぱり僕は趣味としてトランペットを挙げたことは一度もなかったのだ。


 ところで僕がはじめてトランペットに触れたのは中学一年の春だった。有害極まりない受験戦争*1を終えた僕は、たしかに徳川将軍の事績をことごとく暗記していたし、つるかめ算だって簡単に解けた。しかし中学校でなにをやるのか、やるべきなのかはなにひとつ知らなかった。だから部活のことなんて考えもしなかったし、そもそも部活とはどういうものなのかもよく分からなかった。こんなとき、僕はいつも兄を真似たのだった。4歳のときにピアノを始めたのも、受験勉強に勤しんだのも、みんな兄の真似でしかなかった。そして、兄は音楽部でアルトサックスを吹いていたので、僕はそれを真似ようとした。


 僕がはじめて吹奏楽部の部室に足を踏み入れたとき、部長は楽器経験の有無を尋ねたあとで、四つの楽器を提示してきた。チューバ、ファゴット、パーカッション、トランペット、それらは"残りもの"だった。僕が入部を決めたのは通常よりも少し遅かったのだ。チューバに関しては、体格的に向いていないことがすぐに分かったし、なにより性に合わないと思った。ファゴットはよく分からず、間抜けな音だなくらいの感想しか抱くことができなかった。パーカッションは当時、先輩が皆無だった。というわけで、僕がトランペットを吹くことになったのは消極的な動機であって、そもそもトランペットが好きだったわけではまったくなかったし、そのときまでトランペットを知りさえしなかった。あとで聞いたことだが、同期のひとりは、サックスをやらせてくれなければ入部しないとまで言ってテナーサックスを吹くことになった。そこまでの意気は、当時の僕にも、いまの僕にもない。つまりは、そういうことだと思う。


 はじめて部活を辞めようと思ったのは中学二年のときだ。あとから振り返ってみてもまったくギャグにならないような「中二病」に罹っていた*2僕は、やっぱりギャグにもならないような人間不信と自虐精神に悩まされていた。そうなっては、部活は苦痛以外のなにものでもない。とはいえ、当時の僕にはただひとりだけ信頼できる先輩がいた。彼をかりにS先輩とすれば、Sは一学年上でオーボエを吹いていたので金管の僕とはほとんど接点がなかったが、ミーティングのときなどわざわざ僕のところまで話をしに来てくれたりした。Sは、同期のうちでほとんど孤立していた僕と積極的に会話をしてくれる唯一の存在だった*3。と同時に、Sはダブルリードパートの先輩たちと険悪な仲であったこともあり、部活を辞めたがっていた。僕たちは部室の陰でいつも話していた、厭世的な気分で。僕のほだしとなったのは同期との人間関係だった。中高一貫校だったから、そう簡単にサヨナラができるわけではない。だから、Sがもし辞めたら自分も辞めよう、と中途半端にも決めた。結局、Sは辞めなかった。こうして、僕はずっと吹奏楽を続けることになった。


 高校生になり同期ともようやくうまくやっていけるようになった頃には、僕はもうパートリーダーになっていた。一学年上にトランペットの先輩がいなかったので、高校一年でトップになってしまったのだ。となると、新入生の面倒は自分が見ることになる。新入生は二年間で合わせて三人いたが、みんなかなり懐いてくれて、手紙をくれたこともあった。これはBLではないから、そこからなにかが始まったわけではないけれど、あのような先輩後輩関係は本当に美しかったと思う。いまでも時々あの頃のことを思い出して切なくなってしまう。そういえば自分の卒業式のあとに会ったときにはハグを求められた*4


 ほとんど惰性で続けていた吹奏楽だったが、まさか大学でも続けることになるとは思っていなかった。しかし、続けてしまうのだからよく分からない。大学受験が終わって精神的な危機を迎えていたときは詩にすこしだけ凝っていたから、文芸をやろうとは決めていた。だが、吹奏楽をやるつもりはなかったはずだった。いまちょうど思い出したが、高校時代に吹奏楽関連で知り合った他校の友達(当時は彼女にかなり入れあげていた。関ジャニ∞の好きな子だった)と大学入学前に数回会った際に「吹奏楽を続けよう」と幽かに思った気がする。たしかその子の母校の定期演奏会を観に行ったことで吹奏楽熱がすこし上がったんだと思う。所詮そんなものだった。
 いずれにせよ新歓当日、謎の社会科学サークルに連れていかれたり茶道部のひとたちとお茶を飲んだりしたものだが、ほんの気がかりでそのあと吹奏楽部を訪れたのだった。そこから先のことはほとんど覚えていないが、気づけばなぜか吹奏楽団に入団していた。肝心な動機が本当にまったく思い出せないが、それはきっと惰性だったのだろう――




退団について

 思い出話はこれくらいにしよう。退団するのは、楽団にいるべきではないという結論に達したからであって、それ以上でもそれ以下でもない*5。そして、この結論を可能な限りネガティヴに解釈すれば、僕の自滅ということになるだろう。すべては僕自身の問題に帰することができる。それらをいちいち列挙することはできないが、ひとつには僕のひと付き合いに重大な問題があったことはもはや疑いようもなく、このことは終始自身の首を絞めることとなった。この点に関して僕は非常に悪かったと思う。本当に悪かったと思う。そして非常に反省している。そういえばかつて亀井勝一郎が自殺した太宰治について「あるひとにとってはなんてことのない楽しみであっても、太宰にとっては死の苦痛となる」というようなことを述べたことがあったが、僕はこの点において太宰と近しいものをしばしば非常に抱えてきたように思う。これは精神的には非常に疲れることだった*6。しかし、その責任はやはり自分自身にある。その責めは全うせねばならない。
 端的に言って、すべて僕の責任だ。かりに僕が誰かを糾弾しようとすれば、僕は自らの不利を思い知って沈黙するだろう。僕が楽団においてなしうることは、本来的には沈黙のみである。


 退団を本格的に考え始めたのは今年の二月頃だったと思う。この頃には新学期の忙しさがある程度予測できていたし、哲学に対する熱意がピークを迎えていた頃だった。京大院哲学科の院試の過去問を手に入れるために京都へ向かったのもまさにこの二月だった。この時期に退団を企図したのは、哲学への没頭のためだ。それは非常に純粋な気持ちであって、疑いようのないものだったと思う。ごく一部の親しい同期には二月から春合宿の時期にかけて直接に退団の意図を伝えた。彼・彼女らの素晴らしかったのは、その意図をけっして否定しなかったことにあると思う。だからこそ、僕はその後の熟慮の機会を持つことができた。結果的には、退団はせずに出席日数を減らすことにした。当時は少なからず楽団への愛着(執着?)があったことの証左である。
 だが、次第に僕は重大なことに気がつくようになっていた。入団以来ずっと拭えなかった周囲の空気感との耐え難い乖離とでもいうべきものはこの頃、僕のうちで非常に逼迫した問題となっていた。もはや何をしても、何を言っても、自分を利するものは得られないし、同時に誰のためにもならないように思われてきた。楽団のうちでは特段に無理をしていたわけではなかったけれども、僕の自由がある程度抑圧されざるを得ないということはとっくのとうに学んでいた。楽団における周囲の関心、倫理、ユーモアに対して過剰に敏感になっていた。この楽団ではいったいなにが倫理から外れたもの(笑えないもの)とみなされるのか、逆にいったいなにがユーモアの範疇に収まるもの(笑えるもの)とされるのか、といった問いが絶えず僕に現れてきた。時々は、ある種の団員らにおけるあさましさ――倫理とユーモアとの境界の曖昧さ、より具体的には"誰の行為なのか"ということによってその境界が個別的に決まってしまうという意味でのあさましさ――に義憤を覚えたりした。とりわけ自分の信用していたひとのそうしたあさましさを見るのは本当につらかった。いったい何が間違っているのか、何が悪いのか、まったく分からなくなってしまった。


 春にもなると、希望よりは失意が、愉快よりは苦渋が、楽しさよりは寂しさが、楽団において僕を襲うようになっていた。唯一出席していた毎週月曜日はだいたい憂鬱な気分だった。僕はかつて「春に想う」という短いエッセイ*7で「愛と理解とはまったくの別物である。愛は理解を促し得るが、理解は決して愛の十分条件ではない」と書いたことがあるが、これは当時の楽団へのコミットの仕方をひとつ念頭に置いたものだった。理解なき愛も可能であると僕は信じたかった。しかし、それはどうやら不可能であるらしいことが、このところ分かってきた。おそらく僕は徹底して楽団に対しては無理解だったのだ。


 ところで、呪いには二つの種類がある。もとから呪いであるようなものと、事後的に呪いと化すもの。いまの僕はまさにこの二つの呪いに苛まれている。結局のところ、これが退団の根本的な動機である。とどのつまり、惰性こそ一つ目の呪いだ。中学時代のあまりにも中途半端な決意――Sが吹奏楽を続けるから自分も続けるのだという――、そしてもとを糺せば兄の模倣でしかなかった入部。すべてが惰性であり、すべてが呪いだ。言うまでもなく、楽団に所属していたことも僕にとっては呪いとして機能していたことになる。
 もう一つの呪いは、より心苦しい。楽しかった思い出こそ呪いとなるからだ。楽団では良い思いばかりしてきたわけではないけれど、それでもたくさんの楽しい思い出がある。なんだかんだ横市戦のときに行った八景島は楽しかった。夏合宿も楽しかった。金管の何人かでオールまがいのことをしたのをよく覚えている。あと、11月に金管の同期たちと一緒に行ったディズニーシーも楽しかった。大晦日の忘年会、みんなで寿司を食べたのもよく覚えている。何人かの同期とは何度かカラオケに行った。演奏会本番にしても、ある種の感動を覚えたりした。
 そういった思い出をやさしく掴んでみようとすると、思い出は砂のように指のあいだをするすると落ちていって消えてしまうような感覚を覚える。このとき僕は、あぁ呪いだ、と不吉な思いに駆られてしまう。楽しかった思い出は、もうそのままの姿では存在しなくなってしまった。退団を決めた瞬間、それは耐え難い呪いになってしまった。


 だから、この退団はある種のsuicideだ。呪いを断つためには仕方のないことなのだ。それゆえ、明らかなことだが、楽団に対する恨みとか憎しみとか、まったくない。誰それに対しても同じことだ。すべて僕自身の問題でしかないのだから。そして、僕は自分自身のしあわせと、僕以外のすべての人々のしあわせを心の底から願っている。究極的にはあらゆる平和を願っている。しかし、そのためには失わなければならないものもある。僕はもっとしっかりするためにここを出ていくことにした。




仲間について

 短い間だったが、少ないながら仲間はたしかにいた。彼・彼女らについてここでいちいち述べることは場違いに思われるからそのようなことはしないが、学年・性別問わず、仲良くしてくれたり話を聞いてくれたりしたひとたちはたしかにいた。これは非常にありがたいことだったと思う。その数は少なかったが、それでもいてくれるだけしあわせだったと思う。僕は大変な気分屋であって、特に親密だったひとたちにとっては非常に扱いづらい存在だったことは認めざるを得ない。素直に申し訳なかったと思う。
 唯一述べるとすれば、特にパートの同期は一緒に過ごした時間が比較的長かった。さまざまな場で本当にみんなに迷惑をかけてきた。感謝しなければならないこともたくさんある。あまりにも精神的に未熟で身勝手だった僕をさまざまな意味で支えてくれていたのは主にパートの同期たちだったと思う。僕はもはや彼女たちと対等であるという意識さえ持てなくなってしまったが、かつて一緒に練習したり高尾山に行ったりバーミヤンに行ったりしたことはたしかに事実だったはずだ。僕にとっていまやそれらは耐え難い呪いとなっているが、いつか安らかな気持ちでそれらを思い出せればどんなにいいだろう。


 僕はあまりにも多くを間違えすぎた。この一ヶ月ほど、入団以来の自らの行動などを思い返していたが、驚くくらい自分はひどく間違った選択を下してきたということが分かった。仲間を裏切りかねないようなこともたくさんした。すべて自分が悪いという結論はこうした反省によって確実なものになった。と同時に、自らの選択を正当化する手立てはなにもないことも確実だ。感謝すべきひとに対していわば恩を仇で返すようであったのは、猛省に値すると思う。僕は自らの不遇を嘆く前に誰かをしあわせにしなければならなかったはずだった。


 これから先、そういう仲間たちとどういったかたちでどのくらい会うことになるのかはまったく分からない。もしかしたら、ずっと会わないことになるかもしれない。でも実際、たんに楽団という文脈を離れて自由に会うことができたらいいと切に願っている。それは、まさしく平和でしあわせな未来なんだと思う。

*1:有害な、あまりにも有害な受験戦争!

*2:たぶんまだ治ってないと思う

*3:Sは非常に華奢でかわいい顔をしていたので、そのぶん僕もSが好きだったのだ

*4:しかし拒否してしまった

*5:僕が僭越にも恐れているのは、あらゆる誤解である。この記事は、ありうる誤解に対する拒否をひとつの目的としている。そして、退団の理由については"すべて本人だけが悪い"という究極的な抽象度しか認めたくない

*6:それでも最近はすこし楽になってきた。それはいいことだと思う

*7:A.T.L 新入生歓迎号(2018)』の末尾に収録されている

芸術表象のポエティクス

1.ルネサンスアルチンボルド

 昨年夏に国立西洋美術館で開催された「アルチンボルド展」は、彼の代表作とされる《四季》をはじめとする作品群のために活況を呈したようである。たしかに、美術史的な彼のポジションはともかくとして、彼の作品それ自体が有するグロテスクな奇抜さとアーティスティックな構図などは現代の若者たちにウケそうではあった。実際、私も彼の作品群に触れてみて、その魅力をひしひしと観取することができた。こうして私の芸術体験を述べていこうとするうえで、アルチンボルドは魅惑的であると同時に示唆的であるという点でとりわけ重大である。
 
 アルチンボルドは1526年のミラノ出身であるというから、イタリアのルネサンス初期からは一、二世紀を経たところの「花の都」に生まれたということになる*1。この時代のヨーロッパ世界がペストの流行やオスマン帝国の侵略*2などによる社会不安に苛まれ続けていたことはもはや常識であるが、こうした時代にこそ人文知の希求が実践的なレヴェルで汎化していった事実はまさしくルネサンスの到来を帰結するのである。また、それと同時に進行した宗教改革の影響は同時代的な芸術を論じるうえで見逃すことができない*3。特にアルチンボルドが侍したハプスブルク家は"ガチガチの"カトリックであったから、このファナティックな宗教改革運動には拒絶反応をとりわけ強く示すことになった。
 
 とはいえ、アルチンボルドオーストリアで活躍した16世紀後半は前述の社会不安が徐々に克服されつつあった時代といえるだろう。1555年にはアウクスブルクの宗教和議で旧教・新教の対立は一旦の妥協を見たのであるし、ペストも落ち着いてきていたようである。そうした比較的平和な時代において人文科学よりも自然科学の方に一般的な関心の重点が移ることは、ルネサンスとの対比において理解しやすい*4。であるからこそ、1564年に神聖ローマ皇帝の座に就いたマクシミリアン2世が博物誌的な自然愛好の傾向を示していたことは至極当然といえる。アルチンボルドがこの皇帝の時代に侍するようになったことは、彼の当時の作品に決定的な志向性を付与したという点で非常に関係的である。たとえば、連作《四季》の《春》。ここで描かれている男性は美しい草花どもで構成されている。鑑賞者はその構成力の巧みさに驚愕せざるを得ないが、より微視的にその草花に注目するとその写実の巧みさにもまた驚嘆するのである。ここにアルチンボルドルネサンスを観取できるのである。それを、鑑賞者の多くは分かっていないように思う。展覧会の後半において一見無関係と思われるような博物誌が主題化されていたのは、そのような理由があってのことだろう。

 しかし私がアルチンボルドに対し一定の失望を覚えるのは、結局のところ彼が御用画家であったという点である。御用学者にしてもそうなんだけれども、その類の一群がどうしても好きになれない。アルチンボルドに関してはその手法の独創性は偉大で評価されて当然だとは思うが、その題材はしょせん皇帝の興味関心に依拠したものに過ぎないわけで、そこに御用画家としての限界がある。もっとも、その時代性を考慮すれば仕方のないことなのだが。

 最後に、アルチンボルドシュルレアリスムとの関係について述べておきたい。アルチンボルドの面白さは作品の巨視的/微視的な表象の解釈によってその絵画の性格が全く異なるという点にあるように思われる*5。視覚という生来的な認識装置と、認識対象としての絵画。彼とシュルレアリストたちが共有するのは、装置と表象との認識的連関についての問題提起であろう。アレゴリカルなアルチンボルドの作品には実のところ、そうしたセンシティヴな哲学的問いが秘められているように思えてならない。

2.運慶、日本的媚態の臨界としての

 運慶の仏像はどこかエロティックである。もちろん、それはあくまでも副次的であって、前景化されるのではない。なにしろ、彼の手掛ける作品は仏教を主題化しているのだから。しかし、なお彼の仏像はエロティックである。あの微笑はエロティシズム以外のなにものでもない。日本における伝統的(少なくとも新興とは呼ばれない限りにおいての)な宗教をいくつ、我々は数えることができるだろうか。誰もが認めるであろうことは、仏教がその一つとして数えられることである。1500年近く昔に我が国に伝来した仏教は日本史上で盛衰を繰り返してきた。日本仏教史は限りなく長大な物語である。一方、ヨーロッパにおいてキリスト教は端的に2000年の歴史を持つのであって、こちらも想像を超えるような盛衰を経験している。私はここで、宗教芸術について考えてみたいのである。

 聖母子像。ラファエロのそれが有名であるが、彼の聖母子像は、我々をものの見事な肉体美で圧巻する。聖マリアの豊満な乳房、神の子イエスの豊かな肉付き。母なるマリアの伏し目もまた、エロティックである。そのエロティシズムは、しかし、控えめである。奔放でない。聖母子像に限らず、というより聖母子像よりもずっと直接的にエロティシズムを表現するのが"宗教ヌード"であるが、これは私には宗教というヴェールを纏った娯楽画に思える。そのヴェールをやはりエロティックな所作で剥奪すれば、その内実は途端に明らかになろう。一方、仏教芸術にはそういうところが感じられない。禁欲主義的な宗教性は両者に共通であるにもかかわらず。

 九鬼周造日本民族特有の美意識として「いき」を考察したが、我々は彼の考察をここに適用できるはずである。九鬼は「いき」という現象を、運命による"諦め"を得た"媚態"が"意気地"の自由に生きることだと定義した。はたして、運慶の仏像は「いき」か? 私は首肯したい。運命による"諦め"というと、出家者の世俗に対する"諦め"は容易に連想される。ーー有限的な存在者としての人間が世を捨て仏教に帰依して修業を積み、無限の世界へと開かれていくーー。まさに"意気地"ではないか。だが、しかしである。"媚態"は異性に対するところの様態であるのに、彼の仏像にはそのような対他性を見出せないように思われる。ここに西洋美術との決定的な差異がある。ある種の西洋美術は、宗教美術に限らず、性表現の大胆さに特質がある。通俗的に言えば、「見せられるところは見せる」わけである。さて、私が主張したいのはこのようなことである。すなわち、運慶の仏像には媚態でありながら媚態でない様態ーー媚態の臨界ーーの表象が窺える。一線を越えれば俗的な媚態に"堕"してしまう、緊張的な様態。そこに、運慶の凄絶がある。いわば、ラファエロの聖母子像のような。運慶の作品のエロティシズムはラファエロと共有される。単に異性に対するのではない、アガペーを宿した魂がその微笑に、その伏し目に見出せる。

3.周辺地域のポストモダン的アート

 国立新美術館で開催された「サンシャワー 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」*6は非常に示唆的だった。なによりも、展示の対象が地域性・時代性の点で広範である。改めて、現代美術の形式からの開放性を思い知ったところである。それと同時に、この美術館において開催時期が重なっていた「安藤忠雄展」*7ともテーマを共有するところがあり、なかなか興味深かった。

 1980年代といえば東西冷戦体制の末期で、1989年のマルタ会談で冷戦は終結、1991年にはソ連が崩壊する。ソ連崩壊は、東側諸国の理論的支柱としての"社会主義"というイデオロギーの敗北を決定づけた*8。そう、資本主義であるとか社会主義であるとか、そういった根柢的なイデオロギーへの不信感が高まりつつあった時代が、この時代なのであった。「大きな物語」の終焉によるポスト・モダンの到来である。思想史的には、構造主義における"構造"と"カオス"とのダイナミックな二項対立を乗り越えんとして、ドゥルーズ=ガタリの"リゾーム"概念が登場してくるのである。リゾームは、ハイアラーキー構造を絶え間ない"微分化=差異化(derivation)"によって解体するアナーキーな理論・イメージであるが、この既成の構造の土台として「大きな物語」が在る。二項対立からの脱出は、冷戦期の二大イデオロギーからの逃走を自然と導出する。すなわち第三世界論は、進歩主義的なイデオロギーへの反抗として、世俗的な自律(autonomy)を主題化するのである。

 今回の展覧会はこのような視点からすると、東南アジアという"周辺地域"においてポストモダン的な言説が如何にアートへと還元されたかを窺い知ることのできる貴重な機会であった。勿論、展覧会のテーマはこれに尽きるわけでは全くない。その点は強調しておきたい。補足しておくと、私の言う"周辺地域"とは、ウォーラーステインの世界システム論に依拠した用語である。"中核(core nations)"に相対するところの"周辺(peripheral nations)"であって、価値判断を本来的に含有する用語ではないことに注意されたい。

 前述のとおり、展覧会のサブ・テーマが非常に広範ですべてを概括することはできないので、ポストモダンをテーマにとりわけ印象深かった作品を紹介していこうと思う。まず、ノルベルト・ロルダンの《弁証法唯物論(Dialectical Materialism)》(2013)。この作品は衝撃的であった。1980年代の政治バナーを無加工で提出したもので、その手法はデュシャン的だが、よりはるかに政治的である。"Dialectical Materialism"とだけ書かれたこの巨大な政治バナーはある種の虚無感さえ感じさせる。いうまでもなく弁証法唯物論とはマルクス主義歴史哲学の根本理論であり、その歴史哲学は歴史の最終段階として革命を据えている。しかしちょうどこの時代、マルクス主義という「大きな物語」は失効を余儀なくされていた。とはいえフィリピンはやや特殊で、1960年代から1986年の革命で倒れるまで親米反共のマルコス独裁政権が政治を牛耳っていたので、こうした「大きな物語」も一筋の光明として機能していたようである。ただ、ロルダンが2013年にこの政治バナーを題材に作品化したことは、マスターナラティヴの現代的意義の再確認という点で示唆的であることは間違いないだろう。

 ウダム・チャン・グエンの《タイム・ブーメラン(Time Boomerang)》(2014)も「大きな物語」の拒否を示唆しているようだった。世界地図の上に置かれた黄金の片手。まるで世界全体を支配するかのようである。この作品は、私がこの展覧会で最もよく考えさせられたものである。以下、私の解釈を述べていく。ーー「大きな物語」は統一の原理である。実際、冷戦期の東西対立は両陣営のイデオロジカルな統一のもとに成立していた筈だ。アジアとて例外ではなく、鳩山由紀夫時代に東アジア共同体構想としてアジア主義的な統一が志向されていたことは忘れてはならない。そうした統一的な全体化は、個物の個別性を後退化させ無意味化する。グローバリゼーションに対する批判はそこに生まれる。いま、この黄金の片手は不可視の統一思想であろう。それも黄金であるのは、その類の思想が"善"や"正義"や"真理"を身に纏うためである。本当の恐怖は正義のフリをしてやってくる。しかし、この作品が示唆するのはそうした統一思想の不可能性である。黄金の片手の指先は、それぞれ切り取られている。故にこの片手は世界地図を押し潰しはしているが、掌握はしていない。全体化の限界の裏に個物の顕揚を暗示するこの作品は見事だと思う。ーー

 他にも、心に訴えかけるような作品がさまざまに在った。周辺世界の現代人としてのアイデンティティがそのような創作を可能にするのだろう。世界システム論は、中核によって周辺が搾取・支配される現実をシステム論的に考察している。だとすれば、第三世界・周辺地域としての"アジア"にあって世界随一の先進国である我が国はきわめて特異なナショナル・アイデンティティを保持することになろう。我々がこのような展覧会で観取できるのは、周辺としてのアジアへの幽かなシンパシーと自己省察への強い意志である。

*1:たとえばジョット《カナの婚礼》は1305年、マザッチョ《三位一体》は1427年の作品である

*2:オスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略は1453年である。のみならず、当時はイタリア戦争の最中であった

*3:昨年はルターの『95ヶ条の論題』からきっかり500年というメモリアルイヤーであったにもかかわらず、少なくとも私の周囲でルターが盛り上がったことはほとんどなかった!

*4:平和ボケすると人文科学は不必要に思えるものらしい

*5:シュルレアリスムにおけるこうした絵画の例としては、マッソン《画家とその時代》やエルンスト《鳥のような頭部》が挙げられる

*6:この展覧会は国立新美術館森美術館の二館同時開催だったが、後者には結局足を運べずじまいだった。心残りである

*7:こちらにも足を運んだのだが、ここで論じるにはあまりにも建築の知識が乏しいので扱わないことにした

*8:西側諸国(とりわけ先進国)においては1960年代にはマルクス主義への失望(ex.1968年革命)がはやくも蔓延していたようである

ラスト・エイティーン

 歳が変わる。つい二週間前に年が変わったばかりだというのに、新年はいつもこうやって慌ただしい。

 もうすぐ歳が変わる。振り返ってみると、"18歳"は本当に大変だった。"14歳"も大変だった。でも、"18歳"はもっと大変だったかもしれない。
 まず、受験があった。とてもつらかった。合格発表があった三月はずっと部屋に篭ってたけど、たまに散歩しては車とすれ違う度、このまま轢かれてしまっても別にいいかな、と思っていたのを覚えている。
 入学した。気分は良くなかった。入学式の日は右眼にものもらいができていたから、本当に最悪の気分だった。会場の東京国際フォーラムには二度と来るまい、と強く思った。
 サークルに入った。ATLと吹奏楽部。ATLは男子校みたいでとても居心地が良かった。吹奏楽部は雰囲気が合わなくて、すぐ辞めるだろうなと思っていた。
 はじめて思想書を読んで哲学を志望するようになった。哲学は人生を変えるかもしれないな、と思った。そうしたら、吹奏楽部を辞める気も自然と削がれていった。
 色んな人と話したり出掛けたりして、色んなことを知った。自分がすべてじゃない、ということがよく分かった。居心地の良さが必ずしも自由だというわけじゃないということを思い知った。

 これまでたくさんの失敗を重ねてきたけれども、そのすべてが未来の糧になりますように。