彼岸とはどこなのか

 川崎市の事件を知ってすぐに得たのは、あの男に対するある種のシンパシーだった。あの事件に義憤を抱く人々とあの凶悪犯の間にあって、自分は間違いなく後者に近い場所に身を置いていることに気付いた。まず第一に、まさに自分があのような事件を起こすことが十分にあり得るのだということ、あのような事件を起こすのが自分であっても不思議ではないということだ。実際に事件を起こすかどうかはあまり本質的ではない。おそらくより重要なのはまさにその可能性なのであり、なぜそのような可能性を自分が非常に強く感じざるを得ないのかということだろう。


 これはおそらく自意識の問題なのだが、そもそも自意識は本質的に罪深いものだと思う。すべての問題は自意識に通じる気さえする。とにかく、物心がついた頃からいまに至るまでどうしようもなく下らない時間を過ごしてきたが、そのあいだに自意識だけは肥大してきたという自覚がある。それはつまり、どこまでもあさましい人間に成長してしまったということだ。このような位置から世界を眺めてみると、世界は思ったよりも綺麗で、しかもとても綺麗に思える。まるで自分の存在しない美しい彼岸のように思える。だからそうした美しさを少しでも切り取って、ささやかでも手中に収めておきたいという気持ちがある。そういうわけで最近は風景写真を撮ることが多くなった。


 しかし問題は、その世界に自分は間違いなく存在しているし、また存在せざるを得ないという事実であって、この事実のためにそこはかとない罪悪感のようなものに苛まれてしまう。この世界にとって自分の存在は過剰であり余剰であるという倒錯的な自意識のためだろう。このような自意識は、音楽も、絵画も、哲学も、なにも必要としない。そのすべてが無意味に思えるからだ。こうしてますます貧困になっていく自意識に、どのような積極的な価値を見出せるというのか? おそらくここに価値などないし、その存在そのものが罪だとしても差し支えないと思う。


 だから、こうした厄介な自意識を抱えたうえでいかにして生きていくのかというのは困難な問題だ。どう生きていけばいいのか? たとえば、こうした自意識を抱えた人間にとって、誰かを愛するとか、誰かに愛されるとか、そういったことはおそらく重要ではない。それ以前の問題なのだ、つまり生そのものが問題になっている。だから私などは恋愛に邁進している人間を羨ましく思うが、それは「愛そのものを信じることができているうえに、自身が愛に関与することができるという認識を持っている」ということに対しての羨望だ。私は愛を信じることができないし、そのようなものがかりに存在するとしても、それに関わりたいとはいまや思えない。かつてドストエフスキーを読んだときには愛を信じそうになったが、やがてそれは消えた。結局そこに救いはなかった。




 せいぜい二十年しか生きていないのに、顔向けできない相手がこんなに存在することになるとは思っていなかった。たしかに人間関係は不得手なほうだし、そもそも人間そのものはまったく好きではない。しかしそれにしても、ここまで困難な生活を送るはずではなかった。いや、正確に言えばそこまで困難ではないのかもしれない。生活において特定の人物や物事から目を逸らすことはそれなりに自然にできるからだ。だが、それはあくまでも仮初めでしかなくて、なんの解決にもなっていない。しかし、そもそも解決は必要なのか? 解決や和解が可能なのだという前提が生活を苦しくさせているのではなかったのか? おそらく、次のようなことになると思う。できるだけ誠実に生きようとするのなら、解決は必要だと思い続けなければならない。


 なんの躊躇もなく声を聞かせたり姿を現すことができるということは幸福なことだ。それが不可能になってしまったあとで、そのようなことに気付くことになる。


 他人の言動や行動に対して非難したい気持ちがあったとする。その際、その非難が現実のものとなるためには以下のような認識が必要だと思う。まず、自分は正しいのだという認識。そして、その非難がある意味において必要なのだという認識。この両者が存在しないところに、現実の非難はあり得ない。
 自分としては、この第一の認識において躓くことが多い。本当に自分は正しいのか? おそらく正しくないのだ。というのも、当の自分の生活や人生がまったく上手くいっていない。よく言われるように怒りが人間にとって崇高な感情であるとしても、自分のそれはけっしてそのようなものではない、いわば間違った怒りに過ぎないのだという認識に襲われることになる。こうなるとどうしようもないので、結果として口をつぐむことになる。


 哲学科に籍を置くことになった際、「物事を深く考えることはよいことだ」と親に言われたことがあった。当時はその通りだと思って納得していたが、最近だんだん自信がなくなってきた。本当にそうなのか? そもそも深く考えているようでいて、そこには「深さ」なんてなかったとしたら? 
 このような文章を書いている以上、通常の意味において自分は「物事を深く考えている」ことになるのだろうが、このように考えてみたところで良いことなどひとつもなかった。かえって友人など大切だったはずの人々を失うことになったし、また「まったく理解できない」と突き放されることも多かった。もしかしたらただ自分の思考に「深さ」が足りないだけで、正しい「深さ」であれば良いことがあるのかもしれない。だとしても、そのような「正しさ」を求める努力をしたいとはどうしても思えない。たんにその「正しさ」を信じられないからだ。


 むしろ、解決が必要だという前提のもとでこうやって考え続けることは間違いなく苦痛を伴う作業だ。そうした思考における苦痛はやがて生活における苦痛を生むことになる。結果として、ただ生活がつらくなるだけだ。いったいどこに良いことがあるというのか? しかし既に言ったように、できるだけ誠実に生きようとするなら、これは受け入れなければならないことなのだろう。自分としては、世界に対するある種の償いとして、この誠実さを失わないようにしたいと思っている。他人からすればまったく誠実でないように見えるかもしれないが、根本的にはこのような論理のもとに生活を送っている現状だ。

四月、すべての場所

Ⅰ 平成、最後の場所
 いまこうして平成という時代が終わろうとしている。おそらく身辺になにか重大な変化があるわけではないということは分かっているのだが、やはりどこか落ち着かない。それはまず第一に、ぼくは平成という時代しか生きてこなかったし、つまり平成という時代しか知らないということによるのだと思う。別にだからといって「ひとつの時代が終わり、ひとつの世界が終わる」という大仰な心持ちというわけではないけれど、しかしなにか得体の知れない時間と空間に身を置かれてしまうような気分になってしまう。
 そこに「令和」という名があろうがなかろうが構わなかったのかもしれないけれど、ともかく平成が終わるということは決定的に思える。しかしそれはけっして決定的な節目ではないのだと思う。ぼくは明日からまったく生まれ変わるわけではない(し、実際そのつもりもない)。そして明日もまた今日とほとんど同じように人々は生きるだろう。今日も明日もやはり同じ春でしかない。だから、いったいそれがどのような意味で決定的なのかはよく分からない。


 ぼくがこの眼でこれまで見てきた風景は例外なくどれも平成のものだった。当然の事実であるにもかかわらず、ここには奇妙な感覚を覚える。ぼくが生きてきたこの二十年間はあまりにも短く思える。そして、これから迎えることになるであろう時間は、あるいは時代はあまりにも長すぎる。
 平成はいまのぼくにとっては間違いなく、すべての場所だった。そして、ここは今日でもって最後の場所になってしまう。ひょっとすると決定的なのは、この断絶なのかもしれない。




Ⅱ 四月、すべての場所
 四年間の大学生活の前半が終わった(このさき順調にいけばの話である。しかし、ほぼ間違いなく順調に進むだろう。ここには確信がある)。短かったようにも思えるし、長かったようにも思える。だがそんなことよりもずっと本質的で重要なのは、おそらく次の自問だ。つまり「ぼくは十分に速くあったろうか」という問いである。あの有名な本に刻まれたこの自問はことあるごとに脳裡を掠めてきた。あの本をいささか距離を取って眺めることはずいぶん容易くなったが、この自問だけは事情が違っていて、いつでも切実なメッセージを発していたように思える。この問いは当然ながら人生訓めいたものではまったくなく、むしろ思想的に専門的なものであるにもかかわらず。


 ぼくは(どちらかと言うと)受験で失敗した人間なので、それだけいっそう大学では勉学に励もうと思っていた。入学当初は歴史学を専攻するつもりでいたから、歴史学の授業を受講する傍らで自主的に十字軍(なぜ十字軍について調べようと思ったのかはまったく覚えていない)についての書籍を漁ってノートを取ったりしていた。それが正しい勉強方法だとはさすがに思わないが、気概だけは確かだった(と思う)。その一方でサークルやバイトに腰を入れるつもりはあまりなく、どちらかと言えば適当にやっていた。サークルについてはそもそも自分が吹奏楽団に入団することになった経緯をほとんど覚えていないのだが、それもあってか楽器をちゃんと練習した記憶がほぼない。工場でのバイトもすぐに辞めてしまった。巨大冷凍庫のなかで冷凍食品を仕分けるバイトだったが、いま思えば労働環境はわりと良かったと思う(当然最低賃金だけれども)。それに、適当な寒さというのはどこか心を落ち着かせるところがある。だからいまでも周囲の人々によく紹介している。


 はじめてサークルに入った動機をなんとか思い出そうとすると、そこで「大学生活」における人間関係という問題が出現してくる。これはまた、「大学生活」に対するイメージの問題と密接に関わっているはずだ。
 ぼくはどちらかと言うと大学には幻想を抱いていないほうだったと思う。大学に対する期待というものがほとんどなかった。それは大学という場所に関する無知ゆえでもあったが、「大学生活」に対する漠然とした印象のためだ。ちょうど二年くらい前(つまり入学当初だ)のぼくの「大学生活」に対するイメージといえば、ほとんど破天荒なまでの明るさの裏に救い難い暗さを横たえたもの、という具合だった。底抜けの明るさというものはどうしたって見込めなかったし、その意味で青春というものも「大学生活」とは無縁のものに思えた。それはもはや諦めるべきものであると思えた。一方で、どん底の暗さというものもここにはないのだろうと思った。これは完全に個人的な直観なのかもしれないけれども、とにかく大学において自分にはあまりにも純度の高すぎる暗闇は訪れはしないだろうと思っていた。あるとすれば、それは非常に不安定で、明暗の判断さえほとんどつかないような、そういった場所でしかないはずだった。しかし、その意味でその場所は救い難く暗い。


 いくらか冗長になったので結論を急げば、ぼくは結局、いくらか変奏されたものではあっても「大学生活」に没入してしまったし、やはり救い難い暗さを知ることになってしまった。なぜそのようなことになったかと言えば、これは間違いないが、あの自問ーーぼくは十分に速くあるだろうかーーがそれに向かわせたのだ。これもまた間違いないことだが、大学は速度の激しい場所だ。そこでは時間は強迫的に流れていく。だから、そこに身を置きながらそれに抗おうと頑なになってみても、それはおそらく失敗を余儀なくされている。かりに上手くいっていると思っているときには、その実まったく別のなにかを相手にしていることが多い。
 だからこそ、適度に(あるいは極度に)開き直ることで「大学生活」は成功するのかもしれない。しかし、それが良いことなのかどうかは分からない。おそらくそれが分かるのはずっと後になってからなのかもしれない。もしくは、結局なにも知ることはできないのかもしれない。ただ、できたら良いことであってはほしくないと思っている。

吹奏楽を辞める話

 7年間続けてきた。7年間も続けてきた、と言うべきかもしれない。それだけ続けてきたのならもっと上達してもよかったはずだ。中学一年のとき、部活のトレーナーから「そんなレベルじゃ趣味でさえないぞ」と言われたことがあるが、いまになってみるとこの7年間、その指摘はつねに当たっていたような気がする。それに、やっぱり僕は趣味としてトランペットを挙げたことは一度もなかったのだ。


 ところで僕がはじめてトランペットに触れたのは中学一年の春だった。有害極まりない受験戦争*1を終えた僕は、たしかに徳川将軍の事績をことごとく暗記していたし、つるかめ算だって簡単に解けた。しかし中学校でなにをやるのか、やるべきなのかはなにひとつ知らなかった。だから部活のことなんて考えもしなかったし、そもそも部活とはどういうものなのかもよく分からなかった。こんなとき、僕はいつも兄を真似たのだった。4歳のときにピアノを始めたのも、受験勉強に勤しんだのも、みんな兄の真似でしかなかった。そして、兄は音楽部でアルトサックスを吹いていたので、僕はそれを真似ようとした。


 僕がはじめて吹奏楽部の部室に足を踏み入れたとき、部長は楽器経験の有無を尋ねたあとで、四つの楽器を提示してきた。チューバ、ファゴット、パーカッション、トランペット、それらは"残りもの"だった。僕が入部を決めたのは通常よりも少し遅かったのだ。チューバに関しては、体格的に向いていないことがすぐに分かったし、なにより性に合わないと思った。ファゴットはよく分からず、間抜けな音だなくらいの感想しか抱くことができなかった。パーカッションは当時、先輩が皆無だった。というわけで、僕がトランペットを吹くことになったのは消極的な動機であって、そもそもトランペットが好きだったわけではまったくなかったし、そのときまでトランペットを知りさえしなかった。あとで聞いたことだが、同期のひとりは、サックスをやらせてくれなければ入部しないとまで言ってテナーサックスを吹くことになった。そこまでの意気は、当時の僕にも、いまの僕にもない。つまりは、そういうことだと思う。


 はじめて部活を辞めようと思ったのは中学二年のときだ。あとから振り返ってみてもまったくギャグにならないような「中二病」に罹っていた*2僕は、やっぱりギャグにもならないような人間不信と自虐精神に悩まされていた。そうなっては、部活は苦痛以外のなにものでもない。とはいえ、当時の僕にはただひとりだけ信頼できる先輩がいた。彼をかりにS先輩とすれば、Sは一学年上でオーボエを吹いていたので金管の僕とはほとんど接点がなかったが、ミーティングのときなどわざわざ僕のところまで話をしに来てくれたりした。Sは、同期のうちでほとんど孤立していた僕と積極的に会話をしてくれる唯一の存在だった*3。と同時に、Sはダブルリードパートの先輩たちと険悪な仲であったこともあり、部活を辞めたがっていた。僕たちは部室の陰でいつも話していた、厭世的な気分で。僕のほだしとなったのは同期との人間関係だった。中高一貫校だったから、そう簡単にサヨナラができるわけではない。だから、Sがもし辞めたら自分も辞めよう、と中途半端にも決めた。結局、Sは辞めなかった。こうして、僕はずっと吹奏楽を続けることになった。


 高校生になり同期ともようやくうまくやっていけるようになった頃には、僕はもうパートリーダーになっていた。一学年上にトランペットの先輩がいなかったので、高校一年でトップになってしまったのだ。となると、新入生の面倒は自分が見ることになる。新入生は二年間で合わせて三人いたが、みんなかなり懐いてくれて、手紙をくれたこともあった。これはBLではないから、そこからなにかが始まったわけではないけれど、あのような先輩後輩関係は本当に美しかったと思う。いまでも時々あの頃のことを思い出して切なくなってしまう。そういえば自分の卒業式のあとに会ったときにはハグを求められた*4


 ほとんど惰性で続けていた吹奏楽だったが、まさか大学でも続けることになるとは思っていなかった。しかし、続けてしまうのだからよく分からない。大学受験が終わって精神的な危機を迎えていたときは詩にすこしだけ凝っていたから、文芸をやろうとは決めていた。だが、吹奏楽をやるつもりはなかったはずだった。いまちょうど思い出したが、高校時代に吹奏楽関連で知り合った他校の友達(当時は彼女にかなり入れあげていた。関ジャニ∞の好きな子だった)と大学入学前に数回会った際に「吹奏楽を続けよう」と幽かに思った気がする。たしかその子の母校の定期演奏会を観に行ったことで吹奏楽熱がすこし上がったんだと思う。所詮そんなものだった。
 いずれにせよ新歓当日、謎の社会科学サークルに連れていかれたり茶道部のひとたちとお茶を飲んだりしたものだが、ほんの気がかりでそのあと吹奏楽部を訪れたのだった。そこから先のことはほとんど覚えていないが、気づけばなぜか吹奏楽団に入団していた。肝心な動機が本当にまったく思い出せないが、それはきっと惰性だったのだろう――




退団について

 思い出話はこれくらいにしよう。退団するのは、楽団にいるべきではないという結論に達したからであって、それ以上でもそれ以下でもない*5。そして、この結論を可能な限りネガティヴに解釈すれば、僕の自滅ということになるだろう。すべては僕自身の問題に帰することができる。それらをいちいち列挙することはできないが、ひとつには僕のひと付き合いに重大な問題があったことはもはや疑いようもなく、このことは終始自身の首を絞めることとなった。この点に関して僕は非常に悪かったと思う。本当に悪かったと思う。そして非常に反省している。そういえばかつて亀井勝一郎が自殺した太宰治について「あるひとにとってはなんてことのない楽しみであっても、太宰にとっては死の苦痛となる」というようなことを述べたことがあったが、僕はこの点において太宰と近しいものをしばしば非常に抱えてきたように思う。これは精神的には非常に疲れることだった*6。しかし、その責任はやはり自分自身にある。その責めは全うせねばならない。
 端的に言って、すべて僕の責任だ。かりに僕が誰かを糾弾しようとすれば、僕は自らの不利を思い知って沈黙するだろう。僕が楽団においてなしうることは、本来的には沈黙のみである。


 退団を本格的に考え始めたのは今年の二月頃だったと思う。この頃には新学期の忙しさがある程度予測できていたし、哲学に対する熱意がピークを迎えていた頃だった。京大院哲学科の院試の過去問を手に入れるために京都へ向かったのもまさにこの二月だった。この時期に退団を企図したのは、哲学への没頭のためだ。それは非常に純粋な気持ちであって、疑いようのないものだったと思う。ごく一部の親しい同期には二月から春合宿の時期にかけて直接に退団の意図を伝えた。彼・彼女らの素晴らしかったのは、その意図をけっして否定しなかったことにあると思う。だからこそ、僕はその後の熟慮の機会を持つことができた。結果的には、退団はせずに出席日数を減らすことにした。当時は少なからず楽団への愛着(執着?)があったことの証左である。
 だが、次第に僕は重大なことに気がつくようになっていた。入団以来ずっと拭えなかった周囲の空気感との耐え難い乖離とでもいうべきものはこの頃、僕のうちで非常に逼迫した問題となっていた。もはや何をしても、何を言っても、自分を利するものは得られないし、同時に誰のためにもならないように思われてきた。楽団のうちでは特段に無理をしていたわけではなかったけれども、僕の自由がある程度抑圧されざるを得ないということはとっくのとうに学んでいた。楽団における周囲の関心、倫理、ユーモアに対して過剰に敏感になっていた。この楽団ではいったいなにが倫理から外れたもの(笑えないもの)とみなされるのか、逆にいったいなにがユーモアの範疇に収まるもの(笑えるもの)とされるのか、といった問いが絶えず僕に現れてきた。時々は、ある種の団員らにおけるあさましさ――倫理とユーモアとの境界の曖昧さ、より具体的には"誰の行為なのか"ということによってその境界が個別的に決まってしまうという意味でのあさましさ――に義憤を覚えたりした。とりわけ自分の信用していたひとのそうしたあさましさを見るのは本当につらかった。いったい何が間違っているのか、何が悪いのか、まったく分からなくなってしまった。


 春にもなると、希望よりは失意が、愉快よりは苦渋が、楽しさよりは寂しさが、楽団において僕を襲うようになっていた。唯一出席していた毎週月曜日はだいたい憂鬱な気分だった。僕はかつて「春に想う」という短いエッセイ*7で「愛と理解とはまったくの別物である。愛は理解を促し得るが、理解は決して愛の十分条件ではない」と書いたことがあるが、これは当時の楽団へのコミットの仕方をひとつ念頭に置いたものだった。理解なき愛も可能であると僕は信じたかった。しかし、それはどうやら不可能であるらしいことが、このところ分かってきた。おそらく僕は徹底して楽団に対しては無理解だったのだ。


 ところで、呪いには二つの種類がある。もとから呪いであるようなものと、事後的に呪いと化すもの。いまの僕はまさにこの二つの呪いに苛まれている。結局のところ、これが退団の根本的な動機である。とどのつまり、惰性こそ一つ目の呪いだ。中学時代のあまりにも中途半端な決意――Sが吹奏楽を続けるから自分も続けるのだという――、そしてもとを糺せば兄の模倣でしかなかった入部。すべてが惰性であり、すべてが呪いだ。言うまでもなく、楽団に所属していたことも僕にとっては呪いとして機能していたことになる。
 もう一つの呪いは、より心苦しい。楽しかった思い出こそ呪いとなるからだ。楽団では良い思いばかりしてきたわけではないけれど、それでもたくさんの楽しい思い出がある。なんだかんだ横市戦のときに行った八景島は楽しかった。夏合宿も楽しかった。金管の何人かでオールまがいのことをしたのをよく覚えている。あと、11月に金管の同期たちと一緒に行ったディズニーシーも楽しかった。大晦日の忘年会、みんなで寿司を食べたのもよく覚えている。何人かの同期とは何度かカラオケに行った。演奏会本番にしても、ある種の感動を覚えたりした。
 そういった思い出をやさしく掴んでみようとすると、思い出は砂のように指のあいだをするすると落ちていって消えてしまうような感覚を覚える。このとき僕は、あぁ呪いだ、と不吉な思いに駆られてしまう。楽しかった思い出は、もうそのままの姿では存在しなくなってしまった。退団を決めた瞬間、それは耐え難い呪いになってしまった。


 だから、この退団はある種のsuicideだ。呪いを断つためには仕方のないことなのだ。それゆえ、明らかなことだが、楽団に対する恨みとか憎しみとか、まったくない。誰それに対しても同じことだ。すべて僕自身の問題でしかないのだから。そして、僕は自分自身のしあわせと、僕以外のすべての人々のしあわせを心の底から願っている。究極的にはあらゆる平和を願っている。しかし、そのためには失わなければならないものもある。僕はもっとしっかりするためにここを出ていくことにした。




仲間について

 短い間だったが、少ないながら仲間はたしかにいた。彼・彼女らについてここでいちいち述べることは場違いに思われるからそのようなことはしないが、学年・性別問わず、仲良くしてくれたり話を聞いてくれたりしたひとたちはたしかにいた。これは非常にありがたいことだったと思う。その数は少なかったが、それでもいてくれるだけしあわせだったと思う。僕は大変な気分屋であって、特に親密だったひとたちにとっては非常に扱いづらい存在だったことは認めざるを得ない。素直に申し訳なかったと思う。
 唯一述べるとすれば、特にパートの同期は一緒に過ごした時間が比較的長かった。さまざまな場で本当にみんなに迷惑をかけてきた。感謝しなければならないこともたくさんある。あまりにも精神的に未熟で身勝手だった僕をさまざまな意味で支えてくれていたのは主にパートの同期たちだったと思う。僕はもはや彼女たちと対等であるという意識さえ持てなくなってしまったが、かつて一緒に練習したり高尾山に行ったりバーミヤンに行ったりしたことはたしかに事実だったはずだ。僕にとっていまやそれらは耐え難い呪いとなっているが、いつか安らかな気持ちでそれらを思い出せればどんなにいいだろう。


 僕はあまりにも多くを間違えすぎた。この一ヶ月ほど、入団以来の自らの行動などを思い返していたが、驚くくらい自分はひどく間違った選択を下してきたということが分かった。仲間を裏切りかねないようなこともたくさんした。すべて自分が悪いという結論はこうした反省によって確実なものになった。と同時に、自らの選択を正当化する手立てはなにもないことも確実だ。感謝すべきひとに対していわば恩を仇で返すようであったのは、猛省に値すると思う。僕は自らの不遇を嘆く前に誰かをしあわせにしなければならなかったはずだった。


 これから先、そういう仲間たちとどういったかたちでどのくらい会うことになるのかはまったく分からない。もしかしたら、ずっと会わないことになるかもしれない。でも実際、たんに楽団という文脈を離れて自由に会うことができたらいいと切に願っている。それは、まさしく平和でしあわせな未来なんだと思う。

*1:有害な、あまりにも有害な受験戦争!

*2:たぶんまだ治ってないと思う

*3:Sは非常に華奢でかわいい顔をしていたので、そのぶん僕もSが好きだったのだ

*4:しかし拒否してしまった

*5:僕が僭越にも恐れているのは、あらゆる誤解である。この記事は、ありうる誤解に対する拒否をひとつの目的としている。そして、退団の理由については"すべて本人だけが悪い"という究極的な抽象度しか認めたくない

*6:それでも最近はすこし楽になってきた。それはいいことだと思う

*7:A.T.L 新入生歓迎号(2018)』の末尾に収録されている

芸術表象のポエティクス

1.ルネサンスアルチンボルド

 昨年夏に国立西洋美術館で開催された「アルチンボルド展」は、彼の代表作とされる《四季》をはじめとする作品群のために活況を呈したようである。たしかに、美術史的な彼のポジションはともかくとして、彼の作品それ自体が有するグロテスクな奇抜さとアーティスティックな構図などは現代の若者たちにウケそうではあった。実際、私も彼の作品群に触れてみて、その魅力をひしひしと観取することができた。こうして私の芸術体験を述べていこうとするうえで、アルチンボルドは魅惑的であると同時に示唆的であるという点でとりわけ重大である。
 
 アルチンボルドは1526年のミラノ出身であるというから、イタリアのルネサンス初期からは一、二世紀を経たところの「花の都」に生まれたということになる*1。この時代のヨーロッパ世界がペストの流行やオスマン帝国の侵略*2などによる社会不安に苛まれ続けていたことはもはや常識であるが、こうした時代にこそ人文知の希求が実践的なレヴェルで汎化していった事実はまさしくルネサンスの到来を帰結するのである。また、それと同時に進行した宗教改革の影響は同時代的な芸術を論じるうえで見逃すことができない*3。特にアルチンボルドが侍したハプスブルク家は"ガチガチの"カトリックであったから、このファナティックな宗教改革運動には拒絶反応をとりわけ強く示すことになった。
 
 とはいえ、アルチンボルドオーストリアで活躍した16世紀後半は前述の社会不安が徐々に克服されつつあった時代といえるだろう。1555年にはアウクスブルクの宗教和議で旧教・新教の対立は一旦の妥協を見たのであるし、ペストも落ち着いてきていたようである。そうした比較的平和な時代において人文科学よりも自然科学の方に一般的な関心の重点が移ることは、ルネサンスとの対比において理解しやすい*4。であるからこそ、1564年に神聖ローマ皇帝の座に就いたマクシミリアン2世が博物誌的な自然愛好の傾向を示していたことは至極当然といえる。アルチンボルドがこの皇帝の時代に侍するようになったことは、彼の当時の作品に決定的な志向性を付与したという点で非常に関係的である。たとえば、連作《四季》の《春》。ここで描かれている男性は美しい草花どもで構成されている。鑑賞者はその構成力の巧みさに驚愕せざるを得ないが、より微視的にその草花に注目するとその写実の巧みさにもまた驚嘆するのである。ここにアルチンボルドルネサンスを観取できるのである。それを、鑑賞者の多くは分かっていないように思う。展覧会の後半において一見無関係と思われるような博物誌が主題化されていたのは、そのような理由があってのことだろう。

 しかし私がアルチンボルドに対し一定の失望を覚えるのは、結局のところ彼が御用画家であったという点である。御用学者にしてもそうなんだけれども、その類の一群がどうしても好きになれない。アルチンボルドに関してはその手法の独創性は偉大で評価されて当然だとは思うが、その題材はしょせん皇帝の興味関心に依拠したものに過ぎないわけで、そこに御用画家としての限界がある。もっとも、その時代性を考慮すれば仕方のないことなのだが。

 最後に、アルチンボルドシュルレアリスムとの関係について述べておきたい。アルチンボルドの面白さは作品の巨視的/微視的な表象の解釈によってその絵画の性格が全く異なるという点にあるように思われる*5。視覚という生来的な認識装置と、認識対象としての絵画。彼とシュルレアリストたちが共有するのは、装置と表象との認識的連関についての問題提起であろう。アレゴリカルなアルチンボルドの作品には実のところ、そうしたセンシティヴな哲学的問いが秘められているように思えてならない。

2.運慶、日本的媚態の臨界としての

 運慶の仏像はどこかエロティックである。もちろん、それはあくまでも副次的であって、前景化されるのではない。なにしろ、彼の手掛ける作品は仏教を主題化しているのだから。しかし、なお彼の仏像はエロティックである。あの微笑はエロティシズム以外のなにものでもない。日本における伝統的(少なくとも新興とは呼ばれない限りにおいての)な宗教をいくつ、我々は数えることができるだろうか。誰もが認めるであろうことは、仏教がその一つとして数えられることである。1500年近く昔に我が国に伝来した仏教は日本史上で盛衰を繰り返してきた。日本仏教史は限りなく長大な物語である。一方、ヨーロッパにおいてキリスト教は端的に2000年の歴史を持つのであって、こちらも想像を超えるような盛衰を経験している。私はここで、宗教芸術について考えてみたいのである。

 聖母子像。ラファエロのそれが有名であるが、彼の聖母子像は、我々をものの見事な肉体美で圧巻する。聖マリアの豊満な乳房、神の子イエスの豊かな肉付き。母なるマリアの伏し目もまた、エロティックである。そのエロティシズムは、しかし、控えめである。奔放でない。聖母子像に限らず、というより聖母子像よりもずっと直接的にエロティシズムを表現するのが"宗教ヌード"であるが、これは私には宗教というヴェールを纏った娯楽画に思える。そのヴェールをやはりエロティックな所作で剥奪すれば、その内実は途端に明らかになろう。一方、仏教芸術にはそういうところが感じられない。禁欲主義的な宗教性は両者に共通であるにもかかわらず。

 九鬼周造日本民族特有の美意識として「いき」を考察したが、我々は彼の考察をここに適用できるはずである。九鬼は「いき」という現象を、運命による"諦め"を得た"媚態"が"意気地"の自由に生きることだと定義した。はたして、運慶の仏像は「いき」か? 私は首肯したい。運命による"諦め"というと、出家者の世俗に対する"諦め"は容易に連想される。ーー有限的な存在者としての人間が世を捨て仏教に帰依して修業を積み、無限の世界へと開かれていくーー。まさに"意気地"ではないか。だが、しかしである。"媚態"は異性に対するところの様態であるのに、彼の仏像にはそのような対他性を見出せないように思われる。ここに西洋美術との決定的な差異がある。ある種の西洋美術は、宗教美術に限らず、性表現の大胆さに特質がある。通俗的に言えば、「見せられるところは見せる」わけである。さて、私が主張したいのはこのようなことである。すなわち、運慶の仏像には媚態でありながら媚態でない様態ーー媚態の臨界ーーの表象が窺える。一線を越えれば俗的な媚態に"堕"してしまう、緊張的な様態。そこに、運慶の凄絶がある。いわば、ラファエロの聖母子像のような。運慶の作品のエロティシズムはラファエロと共有される。単に異性に対するのではない、アガペーを宿した魂がその微笑に、その伏し目に見出せる。

3.周辺地域のポストモダン的アート

 国立新美術館で開催された「サンシャワー 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」*6は非常に示唆的だった。なによりも、展示の対象が地域性・時代性の点で広範である。改めて、現代美術の形式からの開放性を思い知ったところである。それと同時に、この美術館において開催時期が重なっていた「安藤忠雄展」*7ともテーマを共有するところがあり、なかなか興味深かった。

 1980年代といえば東西冷戦体制の末期で、1989年のマルタ会談で冷戦は終結、1991年にはソ連が崩壊する。ソ連崩壊は、東側諸国の理論的支柱としての"社会主義"というイデオロギーの敗北を決定づけた*8。そう、資本主義であるとか社会主義であるとか、そういった根柢的なイデオロギーへの不信感が高まりつつあった時代が、この時代なのであった。「大きな物語」の終焉によるポスト・モダンの到来である。思想史的には、構造主義における"構造"と"カオス"とのダイナミックな二項対立を乗り越えんとして、ドゥルーズ=ガタリの"リゾーム"概念が登場してくるのである。リゾームは、ハイアラーキー構造を絶え間ない"微分化=差異化(derivation)"によって解体するアナーキーな理論・イメージであるが、この既成の構造の土台として「大きな物語」が在る。二項対立からの脱出は、冷戦期の二大イデオロギーからの逃走を自然と導出する。すなわち第三世界論は、進歩主義的なイデオロギーへの反抗として、世俗的な自律(autonomy)を主題化するのである。

 今回の展覧会はこのような視点からすると、東南アジアという"周辺地域"においてポストモダン的な言説が如何にアートへと還元されたかを窺い知ることのできる貴重な機会であった。勿論、展覧会のテーマはこれに尽きるわけでは全くない。その点は強調しておきたい。補足しておくと、私の言う"周辺地域"とは、ウォーラーステインの世界システム論に依拠した用語である。"中核(core nations)"に相対するところの"周辺(peripheral nations)"であって、価値判断を本来的に含有する用語ではないことに注意されたい。

 前述のとおり、展覧会のサブ・テーマが非常に広範ですべてを概括することはできないので、ポストモダンをテーマにとりわけ印象深かった作品を紹介していこうと思う。まず、ノルベルト・ロルダンの《弁証法唯物論(Dialectical Materialism)》(2013)。この作品は衝撃的であった。1980年代の政治バナーを無加工で提出したもので、その手法はデュシャン的だが、よりはるかに政治的である。"Dialectical Materialism"とだけ書かれたこの巨大な政治バナーはある種の虚無感さえ感じさせる。いうまでもなく弁証法唯物論とはマルクス主義歴史哲学の根本理論であり、その歴史哲学は歴史の最終段階として革命を据えている。しかしちょうどこの時代、マルクス主義という「大きな物語」は失効を余儀なくされていた。とはいえフィリピンはやや特殊で、1960年代から1986年の革命で倒れるまで親米反共のマルコス独裁政権が政治を牛耳っていたので、こうした「大きな物語」も一筋の光明として機能していたようである。ただ、ロルダンが2013年にこの政治バナーを題材に作品化したことは、マスターナラティヴの現代的意義の再確認という点で示唆的であることは間違いないだろう。

 ウダム・チャン・グエンの《タイム・ブーメラン(Time Boomerang)》(2014)も「大きな物語」の拒否を示唆しているようだった。世界地図の上に置かれた黄金の片手。まるで世界全体を支配するかのようである。この作品は、私がこの展覧会で最もよく考えさせられたものである。以下、私の解釈を述べていく。ーー「大きな物語」は統一の原理である。実際、冷戦期の東西対立は両陣営のイデオロジカルな統一のもとに成立していた筈だ。アジアとて例外ではなく、鳩山由紀夫時代に東アジア共同体構想としてアジア主義的な統一が志向されていたことは忘れてはならない。そうした統一的な全体化は、個物の個別性を後退化させ無意味化する。グローバリゼーションに対する批判はそこに生まれる。いま、この黄金の片手は不可視の統一思想であろう。それも黄金であるのは、その類の思想が"善"や"正義"や"真理"を身に纏うためである。本当の恐怖は正義のフリをしてやってくる。しかし、この作品が示唆するのはそうした統一思想の不可能性である。黄金の片手の指先は、それぞれ切り取られている。故にこの片手は世界地図を押し潰しはしているが、掌握はしていない。全体化の限界の裏に個物の顕揚を暗示するこの作品は見事だと思う。ーー

 他にも、心に訴えかけるような作品がさまざまに在った。周辺世界の現代人としてのアイデンティティがそのような創作を可能にするのだろう。世界システム論は、中核によって周辺が搾取・支配される現実をシステム論的に考察している。だとすれば、第三世界・周辺地域としての"アジア"にあって世界随一の先進国である我が国はきわめて特異なナショナル・アイデンティティを保持することになろう。我々がこのような展覧会で観取できるのは、周辺としてのアジアへの幽かなシンパシーと自己省察への強い意志である。

*1:たとえばジョット《カナの婚礼》は1305年、マザッチョ《三位一体》は1427年の作品である

*2:オスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略は1453年である。のみならず、当時はイタリア戦争の最中であった

*3:昨年はルターの『95ヶ条の論題』からきっかり500年というメモリアルイヤーであったにもかかわらず、少なくとも私の周囲でルターが盛り上がったことはほとんどなかった!

*4:平和ボケすると人文科学は不必要に思えるものらしい

*5:シュルレアリスムにおけるこうした絵画の例としては、マッソン《画家とその時代》やエルンスト《鳥のような頭部》が挙げられる

*6:この展覧会は国立新美術館森美術館の二館同時開催だったが、後者には結局足を運べずじまいだった。心残りである

*7:こちらにも足を運んだのだが、ここで論じるにはあまりにも建築の知識が乏しいので扱わないことにした

*8:西側諸国(とりわけ先進国)においては1960年代にはマルクス主義への失望(ex.1968年革命)がはやくも蔓延していたようである